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編集者

作者: 沼熊  ぼくの知り合いの小説家が教えてくれたところによると、心が動かなかったことを小説に書くのはつまらない——それは、言葉の箱から箱へと、ものごとををせっせと移し替えていく作業にほかならない。かといって、心が動いたことを小説にするのは、はずかしい。なぜなら彼は、身近な人々の心づかいやちょっとした発言にのみ心を揺さぶられるという、年長者特有の悪癖をすでに身につけてしまっていたからだ。このことに気づいてから、彼には一文字も書けなくなった。かといって、自分に与えた小説家という肩書きをいまさら捨てるわけにもいかなかったので、どうにも身動きが取れなくなってしまった。彼によると、感銘を受けた数々の出来事を小説にするには、関係者が全員死ぬのを待たなければならない。そういうわけで、彼はいまでは路地裏で反社会的な物質を売って生計を立てている。きたるべき傑作の種を充分にかかえて。  小説家なんて愚にもつかないやつらばかりで、結局は読者に届くものを作っているのは我々のような編集者なのである。ぼくは仕事柄、この手の売れない芸術家タイプの人間に何人もであってきたが、ぼく自身は、そういうヤツらにほとんど感情を動かされたことがない。ただひとつ例外があるとするならば、それは三年前の初冬に出会ったQ——あの年は例年にないくらいに秋が短くて、おそらくだけれど二週間くらいしかなかった。雨が降ったり止んだりの蒸し暑さが終わったかと思えば、突然すぐに夜がこたえるくらいの寒さになった。そういう年だったのでこの街の皆は例外なく風邪をひき、ぼくも同様に、アパートの三階の自室でベッドに横になり、ときどき体を起こして外を眺めていた。冷たそうな風が中庭の枇杷の木をすごい勢いで揺さぶっているのが見えた。日曜日の昼近くだった。妻は朝早くからパートに出ており、キッチンには彼女が作っておいてくれた簡単な食事が冷めていた。  一度目にドアのチャイムが鳴ったとき、僕はそれを無視した。たしか横になっていた、はっきりと覚えているので眠ってはいなかったのだろう。ちょうど直前までぼくは漠然とした悪夢を見ていた。締め切りに遅れるとか卒業単位が足りないとかそういうたぐいの夢だ。ぼくが時間を確認しようと、ベッドサイドテーブルのスマートフォンに手を伸ばしたときに、二度目のチャイムが鳴った。その乾いた音は寝起きでぼんやりした頭にガンガン鳴...

まれびと信仰

作者: 沼熊  アメリカ合衆国のど真ん中にある砂漠で生まれ育ったKは、一九九九年の秋に日本に移り住むと、北関東の内陸にある小さな町から一歩も出ないまま二十七歳になった。海を見たことこそ一度もなかったが、海岸近くの環境が金属にどのような変化をもたらすかについてはその町で誰よりも詳しかった——すべて書物から得た知識で。彼は工業高校を卒業してすぐに自動車整備の仕事を始めた。ときおり、前の持ち主がひたすら海の近くを走らせたとかで錆がひどくなった車が運び込まれると、それらはすべてKのもとへとまわされた。そのような車体は珍しかったし、他には誰も担当できる者がいなかったのだ。痩身のKは車体をジャッキアップに載せてその下にするすると潜り込むと、その微かな錆の痕跡の中に潮風のはたらきを見た。岩にぶつかった泡が粉々に砕けて空気を湿らせる様子を、夕方のオレンジジュースみたいな海を、そして空との境目まで延々と延びていく波の模様を見た。  ぼくは当時この工場でKと知り合って三年近く経っていた。彼は一度もほんものの海を見ようとしないどころか、話題に出すことすらしなかった。  Kはいつも一人だった。たしかにこの工場にはまともに口も聞けないやつがいくらでもいるが、彼の寡黙さはそれとは大いに異なる。彼は決して話下手というわけではなかった——話題を振れば、驚くほど豊富な知識をもって話すし、気の利いた冗談も言う。しかし彼は一人でいることが好きだったし、それは野鳥が空を飛ぶように自然なことで、みんながそのことをわかっていた。それはまるで、彼の身体的特徴に一人でいることを好む性質がありありと明示されている、とでもいうようだった。  秋の深まったある日、同じ工場で働く友人のOが三年間の稼ぎで中古車を手に入れた。地方の自動車整備工場で働いていながら、だれも車を持っていなかったことに関しては、ここで説明をしておかなければなるまい。ここは特殊な背景を持って設立された工場で、経営者の気前の良さから、ぼくたちには工場から徒歩十分足らずのところに社員寮があてがわれており、日中であればいつでも使ってよい車が数台、会社によって用意されていた。それで、若い作業員たちは金が貯まるまでそれを使って生活していた——もちろん、たいていの場合においてそんなことは起きないものだが。とにかく、Oはそれをやり遂げたのだ。彼は質問攻めに遭った...

潜水夫

作者: 沼熊  ピアノを聞きに深い海の底まで潜っていくのが好きだった。深く潜れば潜るほど、周りは濃い緑色になり、呼吸するために鼻や口に取り付けた器具から小さな泡が出てきて、それらはゆっくりと上のほうにのぼっていく。水圧で心地よく体が締め付けられ、潜ろうとする手足に感じる抵抗は、まるで冷えたコーヒーゼリーの中をかきわけていくようだ。もう、太陽の光は、とうに届かないところにいるのだ——これほど頻繁に地上と海底を行き来しているのに、どういうわけか一定の深さまで来るたびにそう思う。いつも、それが初めての感覚であるかのように。  あの音も。ピアノ弾きの出す音もまた、同じように泡になって水中をゆらゆらと浮上していくのだろうかと、ときどき想像したりもする。もしもあの店があれほどがっちりとした石造の壁に覆われていなければ、そのイメージはもっとたやすかっただろう。実際には、あの空間は周囲の海底とは完全に切り離されていて、空気の一粒たりとも互いに行き来することは不可能だった——しばらく下降をつづけたあと、ぼくは海底にたどりつく。防護膜を通って重たい装備を全て解き放ち、ぼくは地上にいた時の姿でその店の扉を開いた。  色相環がぐるりと反転するように、この店内にはオレンジ色の光がたくわえられている。その中をきらきらとピアノの音が満たしている。音と光は絶えることがない。ここでは、いつでも誰かが演奏している——もちろん、ぼくもそのうちのひとりだ。ステージに向かって両側には大きな嵌め殺しの窓がならんでいるが、窓が普通そうであるように、外の景色をありがたがるためのものではない。窓の外に見える海底はふだん、店内のきらびやかな光に圧倒されて奥に引っ込んでいるし、それはきっと、この空間の栄華を暗い海底に見せびらかすために設えられたものなのだ。 (昨晩夢を見た……) (またいつもの話……)  カウンター席で話している男女のほうへ、ぼくは引き寄せられるように歩いていく。ふたりの奥には長髪で恰幅のいいバーテンダーがおり、彼はいつ見ても腕を組んでいるような目つきで店内を見渡している。その後ろには木製の大きな棚があり、さまざまな形の、たいていは薄い埃を被ったままの瓶が並んでいて、それら自体にかすかな体温が残っているとでもいうように、一様に暖色の鈍い輝きを放っている。僕が近づくと男のほうが振り返り、ぼくの姿をちらり...

南半球

作者: 沼熊  あのころ村にいた人間は誰であれ、四方を囲む高い山を超えるとそこには《南半球》が我々をぐるりと取り囲んでいるのだと信じて疑わなかった。おおかたのものにとってそれは神話や伝承の世界にかぎりなく近い概念であり、実際にその目で確かめようなどという気を起こす者はまずいなかった。ある年長者はそれを実際に見たといってはばからなかったが、そのことだけで彼は、少し神に近づいた人間として崇拝に近い眼差しを向けられていたのだった。  もっとも、彼のいう《南半球》のようすを皆が一から百まで信用していたかどうかになると話は別だ。 「そこには海ほど幅の広い川があり」と老人は言った。「そこには人喰いくじらが何頭も、河岸を歩く人間を狙っている……」  ぼくたちはこういった話を何百と聞かされて育ってきた。それは、そういうものとして皆が受け止めるのであり、信じるとか信じないという次元の話ではなかった。ちょうどぼくの子供たちが、球体の地球や通貨の価値や租税に馴染んでいくのと同じだ。この目で見たものごとしか信じない人間がひどく生きづらいのは、あの社会でも同じことだったのだ。  ぼくが、ぼくたちの境界線たるあの山々を越えて、ぼくたちの頭の中だけにあった《南半球》に進出していくことになったのは、十四歳のとき、暑い夏の日のことだった。その年はどういうわけか穀物がまったくとれず、ぼくたちは倉庫から白い粉のぱんぱんに詰まった麻袋を運び出して皆に配らなくてはならなかった。ぼくは周りの孤児たちよりも小柄で、筋肉もなく、そのくせ監督者からは他の皆と同じようなはたらきを期待されるものだから、彼らの目を盗んで、とびきり大きな麻の袋の背後に隠れて涼んでいた。ぼくは小さな瓶から少しずつ水を舐め、労働の時間が終わるのを待った。あまりにも長く、そうしているわけにはいかない。なにしろ倉庫の中といったら、日差しからは身を守れるとはいっても、飢えや渇きはかえって倍にしてくれるような場所だったのだ。  あの《攻撃》が起きたのはそのときのことだった。いま振り返ってみても、その後生き残った者たちがあの《攻撃》を憎むほどには、ぼくは心からそれを憎んでいないような気がする。それはぼくのそれまでの生活を完膚なきまでに破壊したが、はたしてそれが心地よいものだったのかどうか……。いずれにせよ、倉庫のおもてで監督者や年長の孤児たちが《侵入...

アルヘシラスイメジャリ

作者: 沼熊  天気の良い日にはアフリカ大陸が見えるのだと、その宿の主人が教えてくれた。僕はどうにかして大陸の影を捉えようと目を凝らしたが、そこには空を厚く覆う雲が、海との間までずっと続いているばかりだった。水面の動きはほとんど感じられないほどに凪いでいた。  宿の庭、一面にほどよく手入れされた芝生の中に離れがあり、僕はそこに案内された。気温よりもずっと涼しく感じた——離れは白い石造りで、風の音がよく聞こえるので、部屋の中にいてもなんとなく海に向かって晒されているような感じがしたものだ。ここは常に旅行者に向けて解放されているらしかった。何人もの旅行者が、ここでアフリカからやってくる乾いた風の中で眠ったのだろう。僕は離れにある狭いシャワールームで熱い湯を浴びたあと、少しくたびれた臙脂色のシーツの上で、遅くまで深く眠った。  次の日は晴れていて、僕は起きるとすぐに海を見るために外へ出た。薄い膜を通ってきたかのように柔らかい日光が当たった。昨日よりも風も波も少しだけ強い。海の向こうに、アフリカ大陸がかすかに見えた。初めて見るそれは水を含みすぎた墨汁のように、黒く空と海に溶け出している染みのようなものでしかなかった。しかし、あれがまごうことなきアフリカ大陸だ——人類は皆そこからきたのだ。  宿の主人が起きてきて、僕を朝食に誘ってくれた。中庭は椅子とテーブルのセットが設えられていて、主人はそこにパンとコーヒーを運んできた。どこにいくのかと主人が聞いた。僕が船でアフリカ大陸に渡ろうと思っているのだというと、微笑んで、それはいい旅だ、と二回言った。 「ずいぶん長いことアフリカには行っていない。こんなに目と鼻の先にあるというのに……」と彼は残念そうに言った。「アルヘシラスの港からタンジェに行くのか」 「ええ。そうするつもりです」 「私も昔は、仕事でタンジェによく行ったものだ。まだ飛行機での旅行など考えられなかった頃の話だよ。とっくに仕事は辞めたが、時々もう一度あの景色を見たいと思う時がある。しかし膝が悪くて、それはかなわないのだ」 「なんの仕事を?」 「偽物のオリーブ油を輸出していたんだ」主人はにやりと笑って言った。「それがどういう仕事か、想像がつくかね」  宿の主人は僕の顔を見ると、答えを待たずに続けた。 「ペンキ用の四角い缶いっぱいに安くて無害な植物油を詰めて、適当な産地を書...

ライトブルー、ダークブルー、グレイ

作者: 沼熊  窓にかぎりなく近い場所で鳥が鳴いている。そいつがばあちゃんの生きていた頃の台詞でも喋ってくれたら世話のないものだ。俺のばあちゃんがいつも何を話していたのか、どういう話し方をしていたのか——世界から方言は消えてしまったので、この鳥が埃の被った玩具箱をひっくり返すように、色褪せたそれらをひとつひとつ丁寧に点検してくれたら。 「ライト・ブルー、ダーク・ブルー、グレイ……」  ここのところはいつでも外国語ばかり。全て俺が悪いのだ。 「ほかにはどんな色があった」俺は姿の見えない鳥に向かって聞いた。そいつは隣の建物に留っているのではなく、地上にいるのだろうか。二つの壁の間をピンポンしてはジグザグにこの部屋まで昇ってきている、そんなふうにも聞こえる声だ。 「ライト・ブルー、ダーク・ブルー、グレイ……」 「陰鬱な感じじゃあなかったはずだよ」と俺は言った。「もっと、いろんな色彩があったはずだ、あそこには」  鳥の声が一度止んだ。  けさ起きるとばあちゃんちの匂いがしたのは驚くべきことだ。長いことお目にかかっていないあれこれの中でも、とびきりしみったれた感傷のひとつ、それがちょうど、向かいのマンションを超えてくる白い光の中を奇跡的にこの部屋に届いたばかりという感じで、寝起きの布団の上に対流する小さな埃の隙間に漂っていたのだ。俺はその懐かしい匂いがどこから出てきているのかを探った、自分の部屋の中、それから隣人の部屋や中庭の条件を仔細に検討し、——起床してからその間約十秒、——わかったことはといえば、この匂いの原因はどうやら太陽そのものにあるのだ、ということである。このワンルームを満たしているのは、あの二十年も前の太陽と同じ光で、それはまるで外国語の金言をちょっといいレタリングに載せたような、ブルー・グレイとオレンジにさりげなく飾られた気恥ずかしさだ。  トゥールポワティエ間の戦いが起こった西暦732年にも俺のばあちゃんの先祖はつまり俺の先祖は確実にどこかで生活していたことには違いない。そいつは大陸にいたのかもしれないし、半島にいたのかもしれないが、いずれにしたって当時の世界には色などどこにもなかったのだろう。それを思うたびに俺はこんな中途半端なところで我が一族の繁栄に蹴躓いている自分を滑稽に感じる。サッカー部のあいつみたいに堂々と方言を原色のペンキみたいに撒き散らして生...

リフト

作者: 沼熊  田舎では規律のない生活に耐えられなかったから、彼女は毎朝決まった時間に山道を歩いた。徒歩でその道を行く人間などほかに居たためしがなかった。まれに車が通りかかることがあれば、ドライバーは嫌味ったらしくハンドルを切り、反対車線にはみ出してから走り去っていった。彼女はそういった車にくっついているばかげたエンブレムをいちいち記憶し、わたしに会うことがあると、まるで珍しい蝶を見つけたかのように報告してくるのだった。幼い頃から車をもたない都会人の生活に慣れきった彼女には、トヨタとメルセデスの違いがわからなかった——ちょうどわたしが、銀座線と半蔵門線の違いを知らないようなものだ。 「今日の車には」わたしの住む、ほとんど小屋と言ってもいい一戸建ての、よく光が当たるダイニングルームで、彼女はわたしの淹れたコーヒーを飲みながら言う。「でっかい文字でトヨタって書いてあった。あのいつものクリオネみたいなマークはついていなかったの。それって普通?」 「クリオネだって」 「そう見えるでしょう。真ん中に細長い円があって、それが羽を広げてて」 「クリオネに羽はないよ。たぶん」 「そう?」彼女は意外そうな顔をしてこちらを見た。「わたしは都会にしか住んだことがないものね。でも水族館で見たときは、絶対に羽が生えていたと思うけどなあ。とにかく、今回の車にはそれがついてなかったの。アルファベットで、〈ト・ヨ・タ〉ってでっかく書いてあった」彼女は一文字ずつゆっくりと発音した。「珍しいの見ちゃったんじゃない」 「古い車種かも」 「うん、古かったかもね。そしてとても大きかった。いつもそのへんで走ってるようなやつの何倍も。何だかとてもゴツゴツしていた。それでいて、全体が真っ青に塗られていてね。あれはおかしいよ。色と形があっていない。あの形だったら、もうちょっとくすんだ色じゃないと。それか迷彩柄に塗るとかね」彼女は早口でしゃべった。わたしは、朝焼けの中で、真っ青なランドクルーザーが背の高い華奢な彼女を大回りでかわす想像をした。彼女はいつでも背骨をまっすぐに伸ばして歩いた。たとえ下草の一面に生えたけもの道でもこつこつと人工的な床材が鳴り響くようすを思わせるような、そんな歩き方をした。そこに染みついた都会のにおいだけはなかなか薄まらなかった。 「あんなふざけた色、久しぶりに見た」彼女は楽しそうに言った。...