ライトブルー、ダークブルー、グレイ

作者: 沼熊

 窓にかぎりなく近い場所で鳥が鳴いている。そいつがばあちゃんの生きていた頃の台詞でも喋ってくれたら世話のないものだ。俺のばあちゃんがいつも何を話していたのか、どういう話し方をしていたのか――世界から方言は消えてしまったので、この鳥が埃の被った玩具箱をひっくり返すように、色褪せたそれらをひとつひとつ丁寧に点検してくれたら。

「ライト・ブルー、ダーク・ブルー、グレイ……」

 ここのところはいつでも外国語ばかり。全て俺が悪いのだ。

「ほかにはどんな色があった」俺は姿の見えない鳥に向かって聞いた。そいつは隣の建物に留っているのではなく、地上にいるのだろうか。二つの壁の間をピンポンしてはジグザグにこの部屋まで昇ってきている、そんなふうにも聞こえる声だ。

「ライト・ブルー、ダーク・ブルー、グレイ……」

「陰鬱な感じじゃあなかったはずだよ」と俺は言った。「もっと、いろんな色彩があったはずだ、あそこには」

 鳥の声が一度止んだ。


 けさ起きるとばあちゃんちの匂いがしたのは驚くべきことだ。長いことお目にかかっていないあれこれの中でも、とびきりしみったれた感傷のひとつ、それがちょうど、向かいのマンションを超えてくる白い光の中を奇跡的にこの部屋に届いたばかりという感じで、寝起きの布団の上に対流する小さな埃の隙間に漂っていたのだ。俺はその懐かしい匂いがどこから出てきているのかを探った、自分の部屋の中、それから隣人の部屋や中庭の条件を仔細に検討し、――起床してからその間約十秒、――わかったことはといえば、この匂いの原因はどうやら太陽そのものにあるのだ、ということである。このワンルームを満たしているのは、あの二十年も前の太陽と同じ光で、それはまるで外国語の金言をちょっといいレタリングに載せたような、ブルー・グレイとオレンジにさりげなく飾られた気恥ずかしさだ。


 トゥールポワティエ間の戦いが起こった西暦732年にも俺のばあちゃんの先祖はつまり俺の先祖は確実にどこかで生活していたことには違いない。そいつは大陸にいたのかもしれないし、半島にいたのかもしれないが、いずれにしたって当時の世界には色などどこにもなかったのだろう。それを思うたびに俺はこんな中途半端なところで我が一族の繁栄に蹴躓いている自分を滑稽に感じる。サッカー部のあいつみたいに堂々と方言を原色のペンキみたいに撒き散らして生きていきたかった。そうなれば俺の先祖が死に物狂いで手に入れたこの土地で胸を張ってやっていけるのに。

「ライト・ブルー、ダーク・ブルー、グレイ……」

 ある日俺が赤いラインの入ったスニーカーを手に取った時、父親は笑った――青がないので仕方なしに赤を選んだのかと彼は聞いた。

「ほかにはどんな色があった?」俺は姿の見えない鳥に向かって聞いた。

 赤が登場することは、おそらく二度とないだろう。


 それでも彼は未開の荒野を旅しながら、赤土に自分や仲間の血肉を見出さなかったとはかぎらない。太陽が登ってくるにつれて、小高い丘から眼下にひろがる青暗い大地がだんだんとその色を取り戻していく。はじめて見る、この土地のほんとうの姿だ――それにおそらく彼は一人ではなかった。

「わたしの血管」穏やかに流れる小川を眺めながら、彼女がいう。「わたしたちの血管」

 まちがいなく彼女はそういった。あの頃の我々は自分の身体を大きく超えるものをうまくイメージすることなんてできなかった。そういう意味で世界は我々の体の中にあったのだし、言葉というものはそうやってできたのだ。自分の体のどこに、水が流れているのか。どこに、土は積もり、どこに風は吹くのか。

「ライト・ブルー、ダーク・ブルー、グレイ……」

 それは意外と肉体的な三拍子のリズムで聞こえる。


 さて言葉という言葉が身体から離れてどれくらいになるだろうか。それらはうきぶくろや鶏冠や声帯を震わせることをやめすべてベクター形式の輪郭になった。俺はその端についた泡をひとつひとつ摘んでは縮めたり引き伸ばしたりする。そのあとで一日中しっくりくるカラーパレットを探している――別々の景色を見た人間にも共通して忘れている何かがあるはずだと信じている。鳴き声は完全に途絶え階下からは労働者の声が喧しく飛び交う時間帯だ。一方で彼らは彼らだけにわかる言葉の交換を続けている。不思議と疎外感は感じないものだ。あれらを捕まえてきて足したり引いたり挙げ句の果てに定義づけをしたりしたところでもうどうにもならない。それだけの分別はついたのだ、よくも悪くも。鳥は飛び立った。もしかしたらこの十年や百年で、太陽だって少しずつ離れていっているのかもしれない。