まれびと信仰
作者: 沼熊
アメリカ合衆国のど真ん中にある砂漠で生まれ育ったKは、一九九九年の秋に日本に移り住むと、北関東の内陸にある小さな町から一歩も出ないまま二十七歳になった。海を見たことこそ一度もなかったが、海岸近くの環境が金属にどのような変化をもたらすかについてはその町で誰よりも詳しかった――すべて書物から得た知識で。彼は工業高校を卒業してすぐに自動車整備の仕事を始めた。ときおり、前の持ち主がひたすら海の近くを走らせたとかで錆がひどくなった車が運び込まれると、それらはすべてKのもとへとまわされた。そのような車体は珍しかったし、他には誰も担当できる者がいなかったのだ。痩身のKは車体をジャッキアップに載せてその下にするすると潜り込むと、その微かな錆の痕跡の中に潮風のはたらきを見た。岩にぶつかった泡が粉々に砕けて空気を湿らせる様子を、夕方のオレンジジュースみたいな海を、そして空との境目まで延々と延びていく波の模様を見た。
ぼくは当時この工場でKと知り合って三年近く経っていた。彼は一度もほんものの海を見ようとしないどころか、話題に出すことすらしなかった。
Kはいつも一人だった。たしかにこの工場にはまともに口も聞けないやつがいくらでもいるが、彼の寡黙さはそれとは大いに異なる。彼は決して話下手というわけではなかった――話題を振れば、驚くほど豊富な知識をもって話すし、気の利いた冗談も言う。しかし彼は一人でいることが好きだったし、それは野鳥が空を飛ぶように自然なことで、みんながそのことをわかっていた。それはまるで、彼の身体的特徴に一人でいることを好む性質がありありと明示されている、とでもいうようだった。
秋の深まったある日、同じ工場で働く友人のOが三年間の稼ぎで中古車を手に入れた。地方の自動車整備工場で働いていながら、だれも車を持っていなかったことに関しては、ここで説明をしておかなければなるまい。ここは特殊な背景を持って設立された工場で、経営者の気前の良さから、ぼくたちには工場から徒歩十分足らずのところに社員寮があてがわれており、日中であればいつでも使ってよい車が数台、会社によって用意されていた。それで、若い作業員たちは金が貯まるまでそれを使って生活していた――もちろん、たいていの場合においてそんなことは起きないものだが。とにかく、Oはそれをやり遂げたのだ。彼は質問攻めに遭った。皆、お前も同じように遊び呆けていたのにどこでどうやってそんな金を工面したのか、と真剣に問うた。
「一日一本ずつ缶ビールを節約したのさ」と面倒になったOは答えた。工場のみんなはその節約で車を買うには何日かかるかを確認するのに、その日の午後いっぱいを計算に宛てる羽目になった。
その週の金曜日、仕事終わりに、Oは突然、皆を乗せて初の出航を行いたい、と言った。それはかねてからOが温めていた計画らしかった。
「今日の夜にここを出て、一晩中かけて北へ向かおう」とOは言った。「うまくいけば日本海に辿り着けるかもしれない」
その言葉を聞いて、ぼくは無意識にKの様子を見たことを覚えている。彼ほどこの計画にふさわしい人間はいないような気がしたのだ。彼はいつものように部屋の端に一人で座り本を読んでいて、とくになんの反応も示してはいないようだった。
「それから?」とある者が聞いた。
「なにもしないよ、ただどこか降りられるところで車を降りて、砂浜だか岩場だかを少し歩いて、それからまたここに帰ってこようと思う」
そのときのぼくたちにとって、この旅行とも呼べないノープランのドライブがどれほど心躍らせるものだったのかを説明することはむずかしい。こういったあれこれはいつの間にか僕たち全員の手をすり抜けていってしまったようなのだと、今になってわかる。
「しかし、乗れるのはぼくを除いて四人までだ」
Kはそのためのくじまで用意していた。ぼくたちはそれぞれ領収書の用紙に名前を書いて、四つ折りにし、キャンディー用の大きな瓶の中にそれを入れた。皆が入れ終わると、Oはその中を手でかき混ぜ、一つずつ取り出しては幸運な当選者の名前を発表した。ぼくは二番目に呼ばれ、そしてKは五番目に呼ばれた。
それから当選者たちだけが工場の控室に残った。他の者は寮へと帰り、Oも車を取りに戻っていった。ぼくは本を読んでいるKの隣に行って、少しの間、話しかけることをためらっていた。
「今日中に、海には辿り着けるだろうと思う」ぼくが近づいてきた様子を感じて、Kの方から話しかけてきた。そういうところがKと喋れないやつの大きな違いだと、ぼくは思った。「ここからそう離れているわけではないから」
「アメリカと比べれば」
「アメリカ人にしてみれば、日本海は湖に見えるのだろう」とKは笑って言った。
「きみはほんとうに海を見たことがないのか」とぼくは尋ねた。「一度も?」
「もしかしたら、こちらに来る時に飛行機の上から見たことがあるのかもしれない。いずれにしても記憶はないよ」
「海を見るのは、楽しみじゃない?」
「いや、正直にいうと少し怖い」Kは本の表紙をじっと見ながら言った。「俺はずっとどこかに閉じ込められてきた人間だという気がする。砂漠の小さな街とか、山に囲まれたこの街とか、それに、閉じ込められることは心地良いし俺という人間の本質だと思わなくもない。俺は海がどういうものかをなんとなく知っている、それはずっと北の海岸から始まってアフリカや南極とも繋がっている。誰もそんな大げさなことを考えないかもしれないが。俺という人間が容れ物だとするとそのエネルギーは大き過ぎて圧倒されやしないかと不安になる」
「どうだろうか」とぼくは言った。
「一度も見ぬまま、海がどういうものかを想像している間に、イメージがかき立てられ過ぎたのかもしれない」
率直に言って、そのときのぼくにも、Kはたかが海岸から少し海をのぞいて見るというだけでたいそうなことを考えすぎているような気がしたものだ。ぼくたちはそれ以上の話をせずに、Oが戻ってくるのを黙って待っていた。
しばらくしてOが――主役とともに――戻ってきた。それは少し古い型の日産のコンパクトカーで、まるでテレビコマーシャルからそのまま着色したように毒々しい青色をしていた。彩度が高過ぎて、少し光の加減が変わればもともとどんな色だったのかわからなくなってしまうような車だ。もっともそれは、暗闇に包まれた工場のてかてかと緑がかったライトに照らされた駐車場でお披露目となったせいでもあるのかもしれなかった。
当選者のうちの一人は大柄な男だったので、そいつが助手席、残りの三人が後部座席に無理やり収まった。ぼくもKも、もう一人の男もかなり痩せていたとはいえ、三人並ぶとさすがに窮屈に感じられた。
それからぼくたちは北に向かってひたすら走り続けた。皆が自動車の整備工でありながら、奇妙なほどに誰もドライブに慣れておらず、車内での気の利いたゲームはおろか音楽さえもほとんど皆無だったが、それでよかった――ぼくたちはそれぞれに窓の外を眺め、見知らぬ街やすれ違う車や、遠くの方に見える地形の変化を楽しんだ。民放のAMラジオが流れ続け、アナウンサーが遠くの街のニュースをぼそぼそと喋ったり、ヒット曲が何曲か連続で放送されたりした。ぼくはKをはじめ誰一人として音楽の趣味を知らなかったが、それでも基本的に無言で重厚な闇の中を走っていく中を流れるアイドルソングは明らかに雰囲気から外れていて、それを皆内心では面白がっているに違いないと感じた。
日本海に面する市には日付が変わる前に到着した。
「見て」助手席の大柄な男が言った。「へんな地名だ」
カーナビを見るとその市の海沿いの行政区画にはカタカナ混じりの地名があった。それがどのような文化からくるものなのかは誰にも見当がつかなかったが、字面としてはなんだか不気味に感じられた。
「ぼくはそうは感じないな」そのことを言うと、Kがつぶやいた。
「日本にきて長いけど、まだわかり得ない感覚がある――そういうことはたいてい面白いものだけれど」
「おれはずっと日本にいるけど、西と東でだって感覚はかなり違う」後部座席の反対側に座っているもう一人の男が言った。ぼくは彼のことをよく知らなかったが、わずかに残る言葉の響きから出身地は西方であることがうかがわれていた。
「そういうものか」Kが言った。
「意外とね」
そこからの道は、もうすぐ海だというのに山がちの地形だった。一度、車道のすぐ脇に動物の姿が見え、Oは驚き、減速した。近づいてよく見るとカモシカだった。ひと組のらんらんと光る目が微動だにせずにまっすぐにこちらを見ていた――もしくは、車や道路のずっと先の何かを凝視していた。Oの車が横を通り過ぎたあとでもずっと同じ方を向いていたから、そう思われたのだ。
そのあと、山道の途中に本線から枝分かれして下っていく道があり、それは明らかに海に続いていた。舗装が変わり、タイヤから砂利の音がし始めた。道沿いにときどき小屋のような家があらわれた。カタカナ混じりの村に住む人たちの家らしかったが、時間帯のこともあってか人間の活動の痕跡は見受けられなかった。それから何度かカーブを曲がると、突然に視界が開けた。
月のない夜だったので、海はどちらかというと、そこに何もないことによってその存在を明らかにしていた。それは道、岩場、陸地の終わりだった。もっと言えば世界の終わりそのものだった。ぼくはKにとって初めて見る海がどこまでも美しく続く水平線であってほしかったと要らぬ心配をした。今の視界はずっと先までただ濃い闇として一体化していたのだ。
ぼくたちは車を降りて、慎重に岩場を伝って水辺の方へと近づいた。岩に当たって砕ける泡が足元にかろうじて見えた。
「よく見えないなあ」数歩先をいくOが言った。風のせいかその声はかなり遠くに聞こえた。「残念だ」
暗い中皆がぐいぐいと進んでいくのが危なっかしく、ぼくとKは安全な足場に止まっていた。Kはどうにかして水平線を見ようとじっと目を凝らしていた。
「音がでかい」とKが言った。重なり続けている波の音はどこかずっと遠くの方から聞こえてくるような感じがした。「ここにいると、まるで海の向こうから幸福をもたらす使者がやってきそうだという気がする」
「小さな島国にはそういった信仰があるという」とぼくは教えた。
「それもうなずける」
ぼくはこの海岸にやってきてぼくたちを幸福へと導くまれびとはどのような姿なのだろうかと想像した。なんであれ光の満ちている時間にやってくるに違いない。たとえば、日の出前の、空がグレーとピンクに塗り分けられるような時間に。使者のことはその日の空の色と結びついて語り継がれるだろう。しかし彼がもたらすものは、もしかしたら文化の発展ではなく、一時の享楽かもしれない。このように月のない夜に、彼がもたらした魔力がすっかり消えて、あとは悪魔が取り分を要求する恐ろしさだけが残ったとしたら?ぼくはそれがこの奇妙な地名の村に実際に起こったとでもいうような現実感のない空想に囚われた。先へ進んでいった三人が見えなくなり、少しの間また波の音だけがし続けた。
「きみは初めて海を見た時の記憶がある?」Kが話題を転じた。
ぼくはその時のことを思い出そうとしたが、どれくらい小さい頃のことだったのかもわからない。「確か小学校に入る前の夏のことだったと思う――地元から車で二時間くらいの海水浴場。臨海工業地帯の隙間に無理やりねじ込んだような砂浜で、水は汚かった――ああ、それから、そのときに海に落ちたような記憶がある。ビニール製のボートのようなものに乗っていて、そこから落ちた――すぐに母親か叔母に拾い上げられた――もっと怪しい記憶だけれど、そのときぼくは海のなかがどうなっているかをはっきりと見たイメージがある。水の中はディズニー映画のように緑色に光っていて、魚の群れや、さんごや、上から差し込んでくる光の揺れがはっきりと見えた。もちろん、当時そこまで沖に出たわけがない。水の中で目を開けたとしても、濁った水と海底を這う魚くらいしかみられないはずだ」
「じゃあ、初めての海の中のイメージはそのあとのどこかで改竄された記憶というわけだ」
「そういう意味では、きみは幸運かもしれない」とぼくは言った。「この歳になれば、初めて海に潜ったイメージは何にも邪魔されることなくそのものとしてずっと残るだろう、良くも悪くも、見たままの通りに」
「飛び込むなら今だろうか」Kの口調にはどこか面白がっているような様子があった。
「まさか。危ないし、だいいちこの暗さでは、何も見えない」
そこで先に進んでいた皆が戻ってきて、なんだよ、お前たちも来ればよかったのに、と口々に言われる中、Kの危うい衝動は実行されないままに済んだ。われわれは車に戻り、山道をもときた方へと戻っていった。日付が変わっていた――そしてぼくにとって、それがKの姿を見た最後の日になった。そこにもっともらしい理由など何一つあるはずはないのに、ぼくはあのときKの背中を押すべきだったのではないかと、今でも時々考えることがある。