南半球
作者: 沼熊
あのころ村にいた人間は誰であれ、四方を囲む高い山を超えるとそこには《南半球》が我々をぐるりと取り囲んでいるのだと信じて疑わなかった。おおかたのものにとってそれは神話や伝承の世界にかぎりなく近い概念であり、実際にその目で確かめようなどという気を起こす者はまずいなかった。ある年長者はそれを実際に見たといってはばからなかったが、そのことだけで彼は、少し神に近づいた人間として崇拝に近い眼差しを向けられていたのだった。
もっとも、彼のいう《南半球》のようすを皆が一から百まで信用していたかどうかになると話は別だ。
「そこには海ほど幅の広い川があり」と老人は言った。「そこには人喰いくじらが何頭も、河岸を歩く人間を狙っている……」
ぼくたちはこういった話を何百と聞かされて育ってきた。それは、そういうものとして皆が受け止めるのであり、信じるとか信じないという次元の話ではなかった。ちょうどぼくの子供たちが、球体の地球や通貨の価値や租税に馴染んでいくのと同じだ。この目で見たものごとしか信じない人間がひどく生きづらいのは、あの社会でも同じことだったのだ。
ぼくが、ぼくたちの境界線たるあの山々を越えて、ぼくたちの頭の中だけにあった《南半球》に進出していくことになったのは、十四歳のとき、暑い夏の日のことだった。その年はどういうわけか穀物がまったくとれず、ぼくたちは倉庫から白い粉のぱんぱんに詰まった麻袋を運び出して皆に配らなくてはならなかった。ぼくは周りの孤児たちよりも小柄で、筋肉もなく、そのくせ監督者からは他の皆と同じようなはたらきを期待されるものだから、彼らの目を盗んで、とびきり大きな麻の袋の背後に隠れて涼んでいた。ぼくは小さな瓶から少しずつ水を舐め、労働の時間が終わるのを待った。あまりにも長く、そうしているわけにはいかない。なにしろ倉庫の中といったら、日差しからは身を守れるとはいっても、飢えや渇きはかえって倍にしてくれるような場所だったのだ。
あの《攻撃》が起きたのはそのときのことだった。いま振り返ってみても、その後生き残った者たちがあの《攻撃》を憎むほどには、ぼくは心からそれを憎んでいないような気がする。それはぼくのそれまでの生活を完膚なきまでに破壊したが、はたしてそれが心地よいものだったのかどうか……。いずれにせよ、倉庫のおもてで監督者や年長の孤児たちが《侵入者》を相手どって戦っているあいだに、ぼくは水の瓶と小さな粉の袋を持ってそっと裏口から倉庫をあとにした。幸い裏口の方には彼らの姿は見えなかったので、ぼくはそのまま裏山の緩やかな崖を木に捕まりながら駆け上がり、ひたすらに山奥を目指した。木々の間から見える空は薄い桃色で、色の異なるジュースを混ぜたときみたいにぼうっと濁っていた。それはなんとなく現実離れした逃避だった――時折、叫び声の間に、あれは人が死ぬときの音に違いない、という音が山の方まで響いてきて、そのときだけぼくは現実に引き戻された。数少ないながら、ぼくにも友達や、話したことのある人間はいたのだ。
《侵入者》の追っ手が絶対に到達できないような場所に辿り着くまで、ぼくは必死で走り続けた。もっとも、彼らの興味は倉庫の食料だけで、村からはぐれた子供のひとりやふたり、彼らがわざわざ追いかけてくるはずもなかったのだが、そんなことには思いが及ばなかったのだ。息が切れ、白いまだらの木がたくさん生えているあいだに座り込んでいると、薄い闇がだんだんと濃くなってきたのが感じられて、ぼくはそのとき初めて怖いと感じた。もう、彼らは退散したころだろうか?山を下ってようすを見にいくべきだろうか?しかし、《侵入者》はぼくたちの村をすでに支配してしまっているという可能性もあった。そうなれば、脱走者として重い罰を受けるかもしれない。それとも、山を越えて未知なる方へ向かうべきだろうか?ぼくは必死に、人喰いくじらと壊滅した村の恐怖を天秤にかけた。あのときのぼくにとって何よりも怖かったのは、死者となったかつての仲間たちだった。彼らが、ずたずたにされたままの格好で、毎晩ぼくの枕元に出てきて裏切り者だとなじるのが怖かった。幸運にもあの《攻撃》を免れたぼくは、いっそ人喰いくじらに食われて彼らと同じところに行くほうがましなのかもしれない。ぼくは村には戻らないと決めた。運が良ければ人喰いくじらには勝てるのかもしれないし――そんなものはもともといないのかもしれないし。もう遅い時間だということはわかっていたので、ぼくはそのまま白いまだらの木の間に身を隠すようにして眠った。季節が冬でなかったことがどれだけありがたかったかしれない。
大枝の間から強い光が差し込んで、ぼくは目を覚まし、それから昨日のことを思い出し――あの不快な音がぼくの脳内に何度も反響した――それから、まだ逃亡の続きであるかのように、ぼくは山を登っていった。もう誰かに見つかる心配はなかったが、それは同時に道のりが険しいことを意味していた。なにしろ何年も人が立ち入っていないのは間違いなかったのだ。歩きながら、ぼくは見たことのない木や虫をたくさん見つけた。もしかしたら、もう《南半球》に入っているのかもしれない――木陰からいつ人喰いくじらやそれに類する怪物が出てきてもいいように、ぼくは気を張った。考えてみれば、くじらの見た目や生態について、あの年長者はまったく教えてくれなかった。ただ、大きくて、人を食う、と言っていただけだ。
たぶん、昼過ぎくらいだったと思う。えんえんと歩いていると開けたところに出て、突然、僕たちが住んでいた村が見渡せたのだ。上から見下ろす村は不気味なほどに平穏だった。戦いのようすが見えたり、ましてやいたるところから煙が上がっていたり、なんてことはなかった。もう、ぼくたちのものだった村は《侵入者》たちの手に落ちたのだろうかと、ぼくは考えた。いくつか、はっきりと誰のものだか知っている家をぼくは見つけ、窓から中の様子が手に取るようにわかるとでもいうように、目を細めてじっと見つめたが、山羊の一頭が動いている様子さえもなかった。
ぼくは自分の薄情さを恥じた。そうして、もしかしたら、自分こそ《南半球》からやってきたよそ者なのではないかと考えたりもした。生まれたときから父も母もいなかったし、そのことについて知っている者も一人もいなかった。ぼくは生まれてすぐに、なんらかの事情で、あの村に捨ててこられたのではあるまいか。それから、あの《攻撃》のときに神に導かれ、山を駆け上っていったのではないか。それは自分の生まれ故郷に戻るという導きだ。それから、もし仮にそうだったとしても、今の自分にはなんの関係もないことだと考え直した。ぼくには、神という存在がどのようなものなのかわからなかった。敵なのか、味方なのかさえも。
それから反対側に山を下っていくとすぐに、これまでで最もぼくを動揺させるものが見えてきた――人の家だ。それは、村にあるどんな家とも違っていた。見たこともないつるつるとした黒っぽい素材で壁が組まれ、やや色の濃い屋根が被せられていた。敷地は背の低い木で覆われており、それは上も横も川面のように、奇妙に平らに育っているみたいだ。それの切れ目から家の入り口までは真っ直ぐに灰色の小石が敷き詰められ、その両側には滑らかな草原が広がっていた。どこを見ても、まるで空間を真っ二つに切ってしまいそうな鋭い直線がのびている。ぼくはここを訪ねるべきだと思った。小石が敷き詰められた道の上に入ると、踏まれた石が擦れて軽く音を立てた。同じところにじっと立っていると体が沈み込んでいくような気がして、ぼくは早足になった。
戸口に辿り着く少し前で内側から扉が開いた。
「またパクってきたのかい」ぼくが何かいう前に、その男はぼくを認め、強い口調で言った。そいつはぼくの二倍はあろうかという大柄な男だった。見たこともない革の靴を履き、藍で染められたごわごわしたシャツを着ている。
「小麦粉だよ!」ぼくが何も答えずにいると、男はぼくが手に持っている小さな麻の袋を指して言った。「おまえ、そろそろ見つかって酷い目に遭うよ」
「これ、ぼくのです」
「なんだ、パクってきたんじゃないのかい」
「ええ、今年はぼくがこれを皆の家まで運んでいるものですから」
男の問いに正面から答えたせいで、ぼくはもっと基本的なこと――例えば、その男の名前とか、そもそもここがどこなのか、とか――を聞く機会を永遠に失ってしまった。男の方では相変わらず平気な顔をしている。
「おまえもずいぶんと酷い格好になったものじゃないか」男の目をよく見ると、どことなく焦点が合っていないように見えた。ぼくのことを誰かと見間違えているのだ。ぼくはたまらなく疲れていたので、それに乗じて家にあげてはもらえないかという気が起きはじめていた。しかし、男には立ち話をやめそうな気配が一向に見えない。
「ぼく、とても疲れていて――」
「まあた仕事をサボっているのかい!」男が急に声を上げた。そしてはじめてぼくの姿を認めたとでもいうように目を丸くした。
「ええ、そうなんです、でも少しの間お庭で休ませてくれませんか」ぼくはとたんに説明が面倒になって言った。男は、激しく眼球を動かしながらぶつぶつと何か呟いていたが、しばらくするとぼくの方を再び見て、また叫んだ。
「また小麦粉をパクってきたのかい!」
ぼくが途方に暮れていると、男は続けた。「隣の村の奴らもね、いいかげん、いつまでもお人よしってわけじゃねえよ。そろそろ泥棒は捕まって罰を受けることになるってもんだ。目には目を、歯には歯を、ってもんよ。なあ?」それから汚い歯を剥き出しにして笑った。ぼくはとても疲れていたので、石が敷き詰められた道から外れると、短く刈り込まれた草原の上に寝転がり、大きな伸びをした。意外にも男は静かにその様子を見ていたが、やがて近づいてきて、ぼくのことを上から見下ろした。男の大きな影がぼくをすっぽりと包み込んだ。
「まあ、いいわ、横になっておればいいわ。減るもんでもねえわ!」ぼくは気持ちよい草の感触を感じ、このまま男がぼくを放ってどこかに行ってくれればいいがと思った。涼しい風が吹き、これまでの疲れが押し寄せ、ぼくは眠くなった。何度か目を閉じ、しばらくしてから期待を込めて開けてみたが、そのたびに男は、まるで彫像ででもあるかのように表情ひとつ動かさないまま、そこにいた。やや薄らいでいく意識の中で、ぼくは、こいつこそが人喰いくじらで、ぼくが眠り込んだ瞬間にぼくを食べてしまうのではないかと、ぼんやり考えていた。
ぼくは寝ぼけた声で、ここは《南半球》なのでしょうか、と男にたずねた。その質問がよほど面白かったからなのか、男はケタケタと笑うと、ぼくの顔の横に腰を下ろした。「南半球?とんでもねえ」彼はいった。彼の剥き出しになった黄色い歯が見え隠れした――「お前が生きているあいだに辿り着くことも、かなわねえだろうよ」