リフト
作者: 沼熊
田舎では規律のない生活に耐えられなかったから、彼女は毎朝決まった時間に山道を歩いた。徒歩でその道を行く人間などほかに居たためしがなかった。まれに車が通りかかることがあれば、ドライバーは嫌味ったらしくハンドルを切り、反対車線にはみ出してから走り去っていった。彼女はそういった車にくっついているばかげたエンブレムをいちいち記憶し、わたしに会うことがあると、まるで珍しい蝶を見つけたかのように報告してくるのだった。幼い頃から車をもたない都会人の生活に慣れきった彼女には、トヨタとメルセデスの違いがわからなかった――ちょうどわたしが、銀座線と半蔵門線の違いを知らないようなものだ。
「今日の車には」わたしの住む、ほとんど小屋と言ってもいい一戸建ての、よく光が当たるダイニングルームで、彼女はわたしの淹れたコーヒーを飲みながら言う。「でっかい文字でトヨタって書いてあった。あのいつものクリオネみたいなマークはついていなかったの。それって普通?」
「クリオネだって」
「そう見えるでしょう。真ん中に細長い円があって、それが羽を広げてて」
「クリオネに羽はないよ。たぶん」
「そう?」彼女は意外そうな顔をしてこちらを見た。「わたしは都会にしか住んだことがないものね。でも水族館で見たときは、絶対に羽が生えていたと思うけどなあ。とにかく、今回の車にはそれがついてなかったの。アルファベットで、〈ト・ヨ・タ〉ってでっかく書いてあった」彼女は一文字ずつゆっくりと発音した。「珍しいの見ちゃったんじゃない」
「古い車種かも」
「うん、古かったかもね。そしてとても大きかった。いつもそのへんで走ってるようなやつの何倍も。何だかとてもゴツゴツしていた。それでいて、全体が真っ青に塗られていてね。あれはおかしいよ。色と形があっていない。あの形だったら、もうちょっとくすんだ色じゃないと。それか迷彩柄に塗るとかね」彼女は早口でしゃべった。わたしは、朝焼けの中で、真っ青なランドクルーザーが背の高い華奢な彼女を大回りでかわす想像をした。彼女はいつでも背骨をまっすぐに伸ばして歩いた。たとえ下草の一面に生えたけもの道でもこつこつと人工的な床材が鳴り響くようすを思わせるような、そんな歩き方をした。そこに染みついた都会のにおいだけはなかなか薄まらなかった。
「あんなふざけた色、久しぶりに見た」彼女は楽しそうに言った。
「青が嫌いなの」とわたしは聞いた。
「とんでもない。むしろ大好き。でもここでは――何だかそぐわないでしょう。山の中から一歩出れば、枯れ草が一面に広がる高原なんだもの」
「もう少し夏にならないと、あれは緑にならないよ」とわたしは教えた。「夏になるととても綺麗なんだけれど」
「いいの。色がなくて寂しいなんてことは、ない」
彼女は東京から越してきてから、そして、私の予想が正しければ、生活にあった色の大部分をいっぺんに失ってから、まもなく一ヶ月だ。
ある日彼女は、スキーリフトで山頂に行ってみたい、と言った。付近のスキー場はオフシーズンにも観光客を呼び寄せるために一年中稼働していた。わたしは、せめてもう少し季節が進んでからにした方がいい、と言った。
「いま、いくべきだという気がするの。夏になって、一面に珍しい花がいっぱいに咲いて、それを写真に撮ってインスタにあげようとする観光客が押し寄せるようになってからでは嫌」
わたしは彼女の口調から、それが本心ではあるものの、一番の理由ではないのだろうと思った。そうして、ここでの生活において規律だけではカバーしきれない退屈しのぎなのだろうと予想した。
「たしか往復で五千円近くもするんだよ」
「それはいいの。わたしが二人分出すからついてきてくれない。きてくれないんだったら他の人と行くから」
彼女がここに移り住んでから、こんなささやかな旅行にも連れ立っていけるような友人はわたしの他に一人もいないことを、わたしは知っていた。それを知っているから最後の発言はひときわ甘美に響いた。わたしは、自分の分は出すよ、とだけ言った。
山道は晴れておりときおり熱風が吹き、そのたびに紫外線からわたしたちを守る湿った空気の層が吹き飛ばされていった。歩道は狭かったので彼女が先を行った。わたしたちはずっと無言だった。話題にならないほどつまらない車が数台わたしたちを追い越した。しばらく行くと景色が開けスキー場の建物が見えてきた。その前を行き来する車の列が遠くに、奇妙なほどゆっくり動いて見えた。
「あれがリフトなの」彼女が振り返って聞いた。
麓にある大きな建物から、山頂に向かって等間隔にフォークを逆さまに刺したような柱が続いていた。それを伝って二本のワイヤーが走り、固定されたリフトの群れが上下に動いていた。それらは山頂付近にくると角度が浅くなって見えなくなっていった。ここからでも、客はひとりもいないことがわかった。
「やっぱりこの季節じゃ誰も乗ってないんだな」とわたしは言った。
「あの見えているところより、もっと高いところまで行くの」
「いや、あそこで角度が平行に近くなって、そのまま上のステーションに到達するんだ」とわたしは言った。「よく見ると上に屋根が見えるよ、麓にあるのとおんなじやつが」
彼女は目を凝らしてから、言った。「すごい色の青」
「確かに。これまで気が付かなかった」とわたしは言った。
「明るいね。上はもっと明るいの」と彼女が聞いた。
「どうだろう。考えたこともなかった」
「なんだか怖いかも」彼女は少ししてから言った。「これ以上明るいところへは…」
「あまり変わらないんじゃないかな」とわたしは言った。明るいのが怖いなどとはこれまで聞いたことがなかった。
わたしたちは麓の建物についた。広い駐車場には車が数台しか駐まっていなかった。わたしはそのすべてが職員のものなのだろうと思った。どこをみても我々二人を招き入れるだけのためにはスケールが大きすぎた。彼女はいつの間にかわたしより後ろを歩いていた。
「サングラスを持ってくればよかった」彼女が眩しそうに目を細めながら言った。彼女はどういうわけか、まだ山頂の明るさを怖がっているように見えた。
建物が駐車場側に張り出したところに、リフト券の販売所があった。円形に小さな穴がたくさんあいた窓ガラスの向こうは陰になっていて、職員の表情さえも窺い知れなかった。わたしは明るさよりもこちらの方が余程怖いと思った。
「珍しいですね、こんな時期に」職員の声が穴を通って拡大されて聞こえてきた。「一枚ですか」
「いえ、二人分お願いします」とわたしは言った。彼女は自分の存在を示すようにわたしの隣に並んだ。
「しばらくお待ちください」職員が裏で何かを調べている気配が見受けられた。そして、「お売りすることはできません」と言った。
「どういうことですか」
「あなたは、大丈夫です。一枚分であれば」職員が言った。「しかし、そちらの女性の方はリフトに乗れません」
「どうして」とわたしが言った。彼女は表情を変えずに黙っていた。
「規則で決まっていまして」
「具体的な理由があるでしょう。こういうのって、リフトに乗れない条件が何かしらあって、それに該当するかどうかをまず質問するんじゃないんですか。どういうこと、乗れないって」
「申し訳ございません。規則でして」
「理由だけ、教えてもらえませんか」
「理由を申し上げるのは差し控えさせていただいております」職員は改まった口調で言った。そこには個人的な申し訳なさの感じが滲み出ていた。「どうしても、というのであれば、規則を無視して乗ることはやぶさかではございません。しかし、とても苦しまれると思います」
「苦しまれる?」わたしは笑った。
「浄化は苦しいものです」と職員が言った。
「いいの」初めて彼女が口を挟んだ。「ここまで来てもらって申し訳ないけれど、戻りましょう」
「どちらにせよ明るいところは怖かったの」山道を降りながら、彼女が言った。高級車が三台連続で我々の横をすれ違い通り過ぎていく。最後尾をいくアルファ・ロメオの運転席に、いかにも成金といったいでたちの男が座っているのをみて、私はこんなやつが何かの間違いを起こして山頂までのリフトに乗るようなことがあれば悔しいと思った。しかしながら、どんなけばけばしい色にだって怖気付くことはない彼らの方が、彼女がきっと耐えきれないであろうほどの明るさにはめっぽう強いということもまた、事実ではあった。