編集者

作者: 沼熊

 ぼくの知り合いの小説家が教えてくれたところによると、心が動かなかったことを小説に書くのはつまらない――それは、言葉の箱から箱へと、ものごとををせっせと移し替えていく作業にほかならない。かといって、心が動いたことを小説にするのは、はずかしい。なぜなら彼は、身近な人々の心づかいやちょっとした発言にのみ心を揺さぶられるという、年長者特有の悪癖をすでに身につけてしまっていたからだ。このことに気づいてから、彼には一文字も書けなくなった。かといって、自分に与えた小説家という肩書きをいまさら捨てるわけにもいかなかったので、どうにも身動きが取れなくなってしまった。彼によると、感銘を受けた数々の出来事を小説にするには、関係者が全員死ぬのを待たなければならない。そういうわけで、彼はいまでは路地裏で反社会的な物質を売って生計を立てている。きたるべき傑作の種を充分にかかえて。

 小説家なんて愚にもつかないやつらばかりで、結局は読者に届くものを作っているのは我々のような編集者なのである。ぼくは仕事柄、この手の売れない芸術家タイプの人間に何人もであってきたが、ぼく自身は、そういうヤツらにほとんど感情を動かされたことがない。ただひとつ例外があるとするならば、それは三年前の初冬に出会ったQ――あの年は例年にないくらいに秋が短くて、おそらくだけれど二週間くらいしかなかった。雨が降ったり止んだりの蒸し暑さが終わったかと思えば、突然すぐに夜がこたえるくらいの寒さになった。そういう年だったのでこの街の皆は例外なく風邪をひき、ぼくも同様に、アパートの三階の自室でベッドに横になり、ときどき体を起こして外を眺めていた。冷たそうな風が中庭の枇杷の木をすごい勢いで揺さぶっているのが見えた。日曜日の昼近くだった。妻は朝早くからパートに出ており、キッチンには彼女が作っておいてくれた簡単な食事が冷めていた。

 一度目にドアのチャイムが鳴ったとき、僕はそれを無視した。たしか横になっていた、はっきりと覚えているので眠ってはいなかったのだろう。ちょうど直前までぼくは漠然とした悪夢を見ていた。締め切りに遅れるとか卒業単位が足りないとかそういうたぐいの夢だ。ぼくが時間を確認しようと、ベッドサイドテーブルのスマートフォンに手を伸ばしたときに、二度目のチャイムが鳴った。その乾いた音は寝起きでぼんやりした頭にガンガン鳴り響いた。ぼくはアパートのチャイムを設計した人間に腹が立った。来訪者の前にそちらに考えが及んだのだから変な話だ。そのあとで、ぼくはゆっくりと立ち上がりながら、来訪者の心当たりについて考えた。妻がなにか重要な配達を頼んでいたのだろうか?ありうる。ぼくはこれを無視し続けていることは得策でないと考えた。ぼくはどうにか体を引きずってインターホンのところに行った。

「はい」少し咳払いをしてから、ぼくは言った。その日初めての発声だったので、声が酷くしわがれていた。

「本を出してくれると伺ってきたのですけれど」

 不思議な声だった。女性か男性かさえもはっきりとしなかった。湧き出てくる清浄な泉を両手で押さえつけて、指の間から漏れ出てしまったような、そんな感じがした。

「どちらさまですか」ぼくはあくまでも丁寧に聞き返した。相手の声に存分に含まれているらしい清らかな成分に、ぞんざいに扱うことを許さないだけの力があったのである。

「近所に住んでいるQというものです」

「どなたかのご紹介で?」

「いえ」そういったあと、Qは慌てたようすで続けた。「あ、はい。叔父が教えてくれたので」

「いまドアを開けますから」

 ぼくは玄関の方まで歩いていき、脱ぎ捨ててあったサンダルを踏みつけると、ロックを回してドアを開いた。そこに立っていたのは男の子だった。中学生になるかならないかといったところで、スポーツブランドのロゴが入ったごく薄い水色のウィンドブレーカーを身につけ、手にはコピー用紙がたくさん挟まったクリアファイルを持っている。

「おはようございます、Qといいます」彼はぼくの方を見上げてあらたまった様子で挨拶をした。一重瞼で目尻が垂れ下がった特徴的な目――ぼくが目線を合わせたときに感じたのは、率直にいって、能天気そうな目だ、ということだ。何年も中途半端な意欲で創作にかかわり合い、ろくでもない生活を送っている芸術家――往々にして実家が太く、制作に何不自由なく打ち込める環境なのに、それをしない――特有の表情に、彼はこの年にして到達していた。そのことがぼくの興味を惹いた。

「誰の紹介できた、とおっしゃいましたか」

 ところで、ぼくは昔から子供相手に馴れ馴れしい話し方で接するということができない。やろうとすると、どうしてもぎこちなくなってしまうのだ。いま、突然やってきたこの状況はあまりにも奇妙で、ぼくは否応なしに自分の話し方に意識が向いた。ぼくはこの子に軽蔑されはしないかと恐れたのである。

「叔父です」

 彼はその名を言った。ぼくはおぼろげながらその顔を思い出すことができた。一年ほど前に数回、ある健康雑誌の記事を発注した男だ。仕事はまずまずで締切にも遅れることはなかったが、そいつの文章にはどこかしら不恰好な書き癖があって、それでよく覚えていた。ぼくはどこがアンバランスなのかを突き止めるために何度も文章を読み返したものだ。修飾には問題がない、読点のつけ方にも、段落の分け方にも。ぼくは最後までそれが何だったか突き止めることができなかった。何か決定的な歪みがあった――まるで一本の足がすり減って短くなってしまった椅子のように、そいつの文章はがたがた鳴った。ぼくは自分の持つ工具を駆使してなんとかそれを商品にし、世に送り出した。そういうことがあったから、ぼくはこの男の子の書く文章に興味を持った。それはああいったバランスの悪さが果たして三親等を超えて遺伝するのかという一点に集中していた。しかし、ぼくはいったん実際的な問題に話を移した。

「それで、あなたは何かを――たとえば、学校新聞の記事のようなものを書いて、それをぼくに見せてくれようとしているのでしょうか」

「いいえ」Qはぼくの言い方に――とりわけぼくが悪気もなく発した「学校新聞」という部分に明らかにむっとした様子で言った。「あなたは文芸誌を扱っているのでしょう。ぼくが書いてきたのは小説です。一度読んでみていただけませんか。叔父のつてでこれを掲載してくれとはいいません。あなただってプロフェッショナルだし、そんなことはむずかしいということは承知しています。ただぼくはあなたから、自分の小説の正確な感想をお聞きしたいのです」

 Qはこれだけを一息に言い切った。そのどことなく傲慢な物言いにぼくは興味を惹かれた、それは悪く言えば、ぼくが彼に感じた第一印象におおむね似つかわしいものだった。

「わかりました」とぼくは言った。「玄関先で申し訳ない。とりあえず、あがってください」

 彼はぼくについてリビングにあがり、いつも妻が座っている食卓の椅子についた。彼の目は落ち着きなく部屋の隅から隅まで見渡した。そういう率直な好奇心を礼儀の力で完全に抑え込むまでには大人びていないらしい。そのことがぼくを少し安心させた。それからぼくは彼の原稿が入ったクリアファイルを受け取った。やや大きめの書体でびっしりとタイプされ、厚みは十枚に達しない程度だとぼくは勘定した。どれほど読むのが苦痛なつまらない小説でも、なんとか読み切ることはできるサイズだ。

 初対面の人間に行う簡単な世間話をいくつかしたあとで、ぼくは言った。

「今日は休日だし、ぼくも他にやることがないから、いまここで読んでもいいけれど」とぼくは言った。「その間、することがないでしょう。これは預かっておいて、感想についてはまた連絡するというかたちでも問題ありません」

 ぼくはちょっと揶揄うようなつもりでこう言った――作家というのは自作の感想に対して中毒的といっていいほどの執着がある人種だ。誰もが、いますぐに何か言ってくれという顔でこちらを見る。ぼくは正直にいうと、そういう瞬間がたまらなく好きだった。そのときだけは、ぼくは《選ぶがわの者》、すべての主導権はこちらにあることを再確認するのだった。それはどんな大作家を相手にしても変わらないのだ。そのときだけは。

 しかしQの表情には、ぼくが期待したような動揺、不満の萌芽はいっさい生じなかった。彼は少し考えたあと――その間、その視線はおそらくぼくの肩越しに、ダイニングの壁に飾られた抽象画の上あたりに注がれていたと思う――意外なことを言った。

「あなたが読んでいる間、ぼくのほうもあなたの作品を読ませていただこうと思って」

「作品?」ぼくはおどろいて言った。

「ぼくは編集者なので――」

「しかし、元々は書く人間だったはず」

 Qは自信を持って言い切った。ぼくはそのとき、彼の瞳孔と虹彩にほとんど色の差がないことを見てとった。南側のキッチンの窓から差し込む真昼の太陽光の中で。そのことで、Qは通常の人間に見てとれる視覚の焦点を欠いていた、そしてぼくはそれを彼の意識の持ちようそのものへの恐れへと自然に展開した。

「昔は小説を書いたりもしていました、確かに。でも残念ながらいまここにそれはない。またどこかでそれを発掘したら、お目にかけましょう。とは言っても、他人にお見せするような代物ではありませんが」

 思えばこの嘘はQには全く通用しなかったのだろう。彼はすべて知っていた、ぼくが昔書いたろくでもない小説の束を、ぼつになった他人の膨大な原稿と一緒にベッドルームの箪笥の奥にしまい込んでいることも、そして編集者となってからも時折、妻が眠った後にそれを引っ張り出してここで、まさにいま我々が座っているダイニングで読み返したり、そこから広がり得る展開をまた新しいノートに書きつけたりしているということも。ぼくはQがいまにも席を立って、現場検証にやってきた刑事さながらに、嘘はやめましょうよ、あなたが原稿を隠しているベッドルームに案内してください、と言い出すような気がした。しかし、そうはならなかった。

「わかりました、では、申し訳ありませんが、よろしくお願いします」とQは言った。「残念ですが」

 その言葉はどのような意味にもとらえることができたし、Qはわざとそういう言い方をしたのだとぼくは確信している。ぼくはQから受け取ったばかりの原稿をテーブルの上に置くと、彼を玄関まで送っていった。

「また、ひと月後くらいにお邪魔しますので」とQは言った。「そのときに、なにか感想をいただけると嬉しいです。ああ、それから、あなたが書いた小説がみつかったら嬉しい。差し支えなければ、わたしにも読ませていただけると」

 ドアを閉め、音が鳴らないようにゆっくりと鍵を回すと、ぼくはベッドルームに戻ってさっきまで寝ていた布団の上に座り込んだ。そのとき、壁際に置かれた箪笥をいっさい見ないようにした――まるで完璧に無視し続ければ、その中身丸ごと消え去ってしまうとでもいうように。忘れていた頭痛が戻ってきた。ぼくは寝転がって、足元に丸まっていた布団をきれいに引っ張り上げ、そこから妻の帰宅まで、夢のない眠りについた。

 結局、一ヶ月が過ぎ、二ヶ月がすぎ、一年が経っても、Qはやってこなかった。彼の叔父が新しい案件に応募してくるようなことだって、起こらなかった。ぼくの仕事にも大きな変化はない。部下が二人辞め、三人が入社した。あの日のQの原稿は、はじめの数行を読んだだけですぐに駄作だとわかり、ぼくはそれを箪笥の中に突っ込んで、そのままだ。ぼくは妻にそれとなく伝えた――これまで却下した原稿をベッドルームの箪笥の中に溜め込んでいて、処分したいが、なかなかできないのだ、と。だから、もしかしたら、優しい彼女がそれらをすべて捨ててしまっているかもしれない。ぼくの知らない間に。