潜水夫
作者: 沼熊
ピアノを聞きに深い海の底まで潜っていくのが好きだった。深く潜れば潜るほど、周りは濃い緑色になり、呼吸するために鼻や口に取り付けた器具から小さな泡が出てきて、それらはゆっくりと上のほうにのぼっていく。水圧で心地よく体が締め付けられ、潜ろうとする手足に感じる抵抗は、まるで冷えたコーヒーゼリーの中をかきわけていくようだ。もう、太陽の光は、とうに届かないところにいるのだ――これほど頻繁に地上と海底を行き来しているのに、どういうわけか一定の深さまで来るたびにそう思う。いつも、それが初めての感覚であるかのように。
あの音も。ピアノ弾きの出す音もまた、同じように泡になって水中をゆらゆらと浮上していくのだろうかと、ときどき想像したりもする。もしもあの店があれほどがっちりとした石造の壁に覆われていなければ、そのイメージはもっとたやすかっただろう。実際には、あの空間は周囲の海底とは完全に切り離されていて、空気の一粒たりとも互いに行き来することは不可能だった――しばらく下降をつづけたあと、ぼくは海底にたどりつく。防護膜を通って重たい装備を全て解き放ち、ぼくは地上にいた時の姿でその店の扉を開いた。
色相環がぐるりと反転するように、この店内にはオレンジ色の光がたくわえられている。その中をきらきらとピアノの音が満たしている。音と光は絶えることがない。ここでは、いつでも誰かが演奏している――もちろん、ぼくもそのうちのひとりだ。ステージに向かって両側には大きな嵌め殺しの窓がならんでいるが、窓が普通そうであるように、外の景色をありがたがるためのものではない。窓の外に見える海底はふだん、店内のきらびやかな光に圧倒されて奥に引っ込んでいるし、それはきっと、この空間の栄華を暗い海底に見せびらかすために設えられたものなのだ。
(昨晩夢を見た……)
(またいつもの話……)
カウンター席で話している男女のほうへ、ぼくは引き寄せられるように歩いていく。ふたりの奥には長髪で恰幅のいいバーテンダーがおり、彼はいつ見ても腕を組んでいるような目つきで店内を見渡している。その後ろには木製の大きな棚があり、さまざまな形の、たいていは薄い埃を被ったままの瓶が並んでいて、それら自体にかすかな体温が残っているとでもいうように、一様に暖色の鈍い輝きを放っている。僕が近づくと男のほうが振り返り、ぼくの姿をちらりと確認した。ぼくも彼の顔を見た。名前の思い出せない、旧い友人だった。しかしここでのルールに則って、お互いに気がつかないふりをした。男が女のほうに向き直って、また話しはじめる;
(道端で知らない初老の男性が近づいてきたんだ)
ぼくは立ち止まり、こんどはステージの方を見た。円卓に着く大柄な男たちの向こう、はるか遠くにピアノ弾きがいた。顔や手元は人混みに隠れてしまい、おそらくは彼の背中であろうものが、ときおり音楽に合わせて前後に動いているのが見える。
(初老の男性は通りすがりざま、俺の手のひらに《なにか》を刺した。軽い痛みが走ったかと思うと、そいつは早足で歩き去っていった。俺が手のひらを見ると、傷が点々とついていた……なにかの星座のようにも見える傷が……)
(本当、つまらない夢、インスピレーションってものがまるでない……)
(それで、そこから血が止まらなくなるんだ……)
男は女の反応になどおかまいなしに話し続けた。ぼくはステージのほうを興味深く眺めているふりをしながら、その話に聞き耳を立てていた。聞いていればいるほど、それが実際には自分の夢だったような気がして、ぼくは混乱してきた。
(あなたにそのくだらない注射針か何かを刺してきた男のこと、覚えていないの)
円卓の方で鋭い音がした。三人組の客のうちひとりがカクテルのグラスを床に落としたのだ。周囲の目が一瞬、その男に集まった。バーテンダーがカウンターの後ろから飛ぶような足取りで出ていき、グラスを落とした男は、ばつが悪そうな顔をしてそちらに少し顔を上げた。まずい、とぼくは思った。どこかに注目が集まると、その瞬間ここを構成しているバランスが少しだけ崩れてしまうのだ。店を満たしているオレンジ色の光が揺らいで、空気中に澱のようなものを作り出したように見えた。
(思い出せない)
ぼくも同じように夢の中の顔、あの無言で歩み去る初老の男のイメージが頭に浮かび、そして意識はそこに集中している。それは明らかによくない兆候だ。ぼくは慌ててそれを振り払うと、考えを何かに分散させようとした。遠くから聞こえてくるピアノの音に。暖色の光を発する無数の出所に。
(思い出せないけれど、怖い……怖かった)
遠ざかっていく男の影と、手のひらに滲んでいく血のイメージをともなって、浮遊感をともなったあいまいな恐怖がこの空間全体へ広がりつつあった。夢の中でまだ子供だったぼくの目の前に、どこからともなく現れた女、彼女はまちがいなく、カウンターに浅く座って退屈そうに男の話を聞いている女そのものだった。それ、どうしたの、と女は聞いた。ぼくは何も答えなかった。彼女の差し出す白いガーゼを手のひらに巻いたが、何度取り替えても、それはすぐに赤く染まってしまうのだ。
(その男は誰なの)と女はしつこく聞いた。彼女は指先でマドラーをくるくると掻き回すのをやめていた。
(思い出せないし、思い出したくもない)
(あなたが作り出したんだから、それはあなたの記憶の中にいる誰かだって、わかっているはず)
(思い出して何になる?)
(ここよりはずっとマシなところで生きていくためよ)
さっきからピアノ弾きが同じループを延々と繰り返していることに、ぼくは気づいていた。まるで、眠りながら指だけが踊り続けているみたいに――しかし円卓についている客たちには、それを意に介さないみたいだ。ぼくは、特定の誰かに意識を集中させないように気をつけながら、客たちの様子を盗み見た。音に合わせて小刻みに揺れている者、分厚いコートを着たまま微動だにしない者、ずっとナッツを食べ続けている者――ぼくはおそらくその中に、夢に出てきた注射針の男を探していた。それからだんだん無遠慮になってきて、ひとりひとりの顔に焦点を合わせる時間が長くなった。それに気がついた数人の客が、遠慮がちに目を伏せた。
そうしていると、ぼくの中にある可能性が浮かびあがってきた。ぼくはじりじりと、人混みの隙間からピアノ弾きの姿を捉えることができる場所を探し始めた。
(やめたほうがいい)
そう言ったのは、カウンターにいた男だった。彼は興奮していて、気がつくとぼくのほうに身を乗り出さんばかりだった。(子供の頃からずいぶん見た目が変わったな)とぼくは思った。(苦労の多い生活でね)彼は両目の下に目立つ隈があり、顔からは多くの水分が失われ、乾燥した気候に適応した野生動物を思わせた。
(彼女のことは気にするな。ここが嫌いなんだ)彼が言った。女にはまちがいなく聞こえていたはずだが、彼女はなんの反応も示さず、上体を不自然にひねってステージの方を見つめていた。(しかし、その割には毎日いる)と言って彼は笑った。
(今日のピアノは誰なのかを知りたい)とぼくは言った。
(わかりっこないよ。誰に聞いたってそんなことを知っている人間はひとりもなし、おまけにフロアはぱんぱんだ)
(君だって知りたいんだろう)
(俺は別にいいね)
(君は自分の中にトラウマを植えつけたやつと直面するのを怖がっているだけだ)その声は自分でも驚くほど嘲笑的に聞こえた。この嫌悪感はまるで自分自身の一部に向けられているような激しさじゃないかと、ぼくは思った。(それがここの主役、ぼくたちに逃避のための心地よい場所をつくっている人そのものであれば、さぞ恐ろしいだろう)
彼は少し考えてから言った。(そいつが悪人だとしたら、われわれもみんな悪人さ)
嘆かわしいやつだ、とぼくは思った。その時隣にいた女がグラスの底に残っていたわずかなカクテルを飲み干して、軽い音を立てて木のテーブルに置いた。ピアノの音は鳴り続けているはずなのに、その音だけが別の世界からきたかのように妙に拡大されて聞こえた。それから彼女は、じゃああなたには、皆がほんとうはどこからきているのかわかっているのね、とわずかに聞き取れる声でつぶやいた。あるいは聞き間違いだったかもしれない――その声もまた方向感覚を欠いていたからだ。
「ああ」とぼくは言った。「わかっているさ」
近くで轟く雷鳴のような音がして、床が少しだけ振動するのを、ぼくは感じた。それから、ステージの両側についている窓が一斉に割れた。そのあとから、大きな圧力のかかった海底の水が流れ込んでくる。一瞬にして不快な音がその場を支配した。しかしピアノの音は止まず、店を満たす観客もまた何にも気が付いていないように同じ場所に留まり続けている。石がぶつかったように穴が空いたところから幾筋も細い水流が流れ込み、窓がだんだんと力に耐えきれなくなって崩壊していく――ここではまるで舞台装置の一部のように見える、あれほど重苦しい濁った空間を作り出す水が。
カウンターの男女も、バーテンダーも消えていた。ぼくは突然、ここには見知ったものがひとりもいないことに気がついた。くるぶしまで濁流に浸かりながら、知ったような顔でステージの方を見つめている集団――みながみな、あかの他人だ。
「ねえ」ぼくは後ろの方で片足に重心をかけながらぴちゃぴちゃとリズムに乗っている、高いハットを被った男に話しかけた。「いかがですか、今夜の演奏は!」
「まあまあというところですな」紳士が答えた。ハの字型に整理された銀色の口髭の端に、飛び散った水滴がきらきらと光っていた。「しかし、こういっては失礼かもしれませんが、ムッシュー、あなたは一番いいところをお聞き逃しになりました。先ほどまで繰り返されていたモティーフは――」
ぼくは最後まで聞かずに、出口のほうへ向かって走り出していた。窓際に飾ってあった趣味の悪い絵画の額がゆらゆらと漂っているのを、ぼくは重い向こう脛でゆっくりとどけ、そのまま前室に出ると、水没しかかっていた潜水道具を掴んで、鼻と口に装着した。そのとき、誰かが後ろからぼくの左腕を掴んで、荒々しく引っ張った。ぼくは水に足を取られてよろけ、両膝をつく格好になった。
(もう一層下がどうなっているのか、ぜひ見ておいた方がいい)
左の手のひらに微かな痛みを感じた。ぼくの手にそれを打ち込んだ男の、前室の扉を開ける後ろ姿がかろうじて見えた。それから、すべてのものを取り込んでべたべたと膨張した店内の光が、薄暗い海底に溶け出していく様子が最後に見えた。