投稿

きっと変わる

作者: 沼熊  ベランダ側の窓を開けたら、外は晴れていて、まるで白い粉を振りまいたようで、住宅街を超えた向こうに中央線の高架が見える。こうやって俺と同じように、新しい生活が同時に何十万、何百万と始まっている街である。なぜかはわからないが、そのことが俺に、この土地にはりめぐらされた下水管についての想像をもたらす。限りない量の排泄物が、限りない数の人々が歩く土地の下を行きかう、高層建築物を上下に行きかう。誰の目にもふれないように、何重もの覆いをかけられている。そのようなことを考えていると気分が悪くなって、俺はカーテンを閉めた。スヌーズを止め忘れていた目覚まし時計が十時をさして鳴った。引っ越して初めての土曜日である。昨夜少しだけ多く飲んだ酒がまだ体に残っているのがわかる。水を買いに行くのも億劫だ。俺はベッドに座って、そのあとでまた横になった。吐きそう、というのとも違う。何かやわらかいものが身体の中を流れているゆるやかな気持ち悪さだ。街が不浄なものを下水道管に隠しているように、俺もこの服の下にみっともない裸の肉体を隠しており、その中にもっと汚い、咀嚼されたさまざまなものを隠している。皆同じだ。汚いものが隠されていることへの怒り——かつて共感した社会主義のロックスター的な怒りは、俺はもう感じない。すべて晒した方がマシだとでもいうのか。人間がどれほど救いのないシステムで動いているかを見せつけた方が良いのか。デスク周りの配線、なんとかしないといけないな、とぼんやり思った。黒や白のケーブルが垂れ下がっている。見えれば見えるほどげんなりしてくるようなものごとばかりで、それは肉体に限らず、精神もしかりである。沈黙は金であり、何を考えているのかなど他人にばれないほうがいいに決まっている。高尚な思想を開陳して尊敬を得、なにかをものにする人間はごく一部である。それだって、その魅力はその精神でなく、高い服に包まれた肉体——いや、肉体は汚らわしいものだから、その おすがた 、とでもいうべきだろうか——に、むしろ宿っているのではないのか。黙っていたほうがもっと良かったのかもしれないのに。とにかく俺は、不必要なことを言わないように気をつける。そう思いながらメッセンジャーアプリを開くと記憶にない送信履歴があって、俺はようやく吐きそうになってきた。まったく、ありがたい話だ。人は変わる……きっと変わる。そ...

ときつくり

作者: 沼熊  春が来て、むささびがいつもどおり木の上の自宅から職場である森の家に滑空をしていたとき、一つの啓示があった。すべてが止まって見えたのだ。もし、時間なんていうものがないとしたらどうだろう? この世は静止した絵巻のようなもので、ただ、ある方向に流れているように見せかけたトリックが至る所にある——滝壺に動き回る泡、色の変わる木、のびる鉤爪。循環しているのとも違う。止まっているのだ、もとからが。だから、誰かが時を作るのをやめれば、そういう世界が戻ってくるのかもしれない。 「時を作っているのはだれなんでしょうか?」その日の昼に、むささびはパン切りの師であるこびとに聞いてみた。「わたしの時間を作っているのはわたしの意識なのか、あなたがパンを切る音なのか、それとも、神様なのでしょうか」 「わたしにもよくわからん」こびとは言った。「しかしな——海という場所があるのを知っているか」 「聞いたことがあります」 「そこに行けば、時間が流れているのがわかるという噂だ。おまえはそろそろ海を見るべきときなのかもしれない。実をいうとわたしだって見たことがないのだが——いまさらこの場を離れるわけにもいかないもので」  こびとは毎日きっかり日の出から日の入りまで働く。パン切り包丁を一定のリズムで動かし続ける。その音が森の中で時を作っているのだ。時はこびとが切り出したパンの枚数で表される。 「あす、二百五十枚に栗の木の前に集合でいいかい?」「いや、きょうはたらふく飲むつもりだ。せめて三百枚以降にしてくれないとね」こんな調子である。  こびとはいう。「わたしがパンを切るのを止めればどうなるか。もちろん、大混乱さ。店やトロッコがまるっきり機能しなくなるんだろうね」  こびとに弟子入りしたむささびは、彼が自分の仕事に自信を持っているのをうらやましく思っていた。こびとには、替えがきかない。むささびも、いつかはそんな存在になってみたいと思った。でも、パン切り包丁を持つだけでひと苦労だったのだ。 「きみは産まれてからこのかた、わたしのつくる時しか知らないのだろう。そろそろ、海の音を聴きに行った方が良さそうだ——優れた ときつくり になれる」  いまとなって、むささびはときどき考えることがある——明日の朝、小人が起きてこなかったらどうしよう。そうなれば、いかに下手でも自分が時を作らなくてはならない。...

光は中庭に届く

作者: 沼熊  生垣の上面に差した光が、ひとつひとつの葉に細かく影を作っていた。それらは同じ方を向き、役所の椅子のように整列している。生垣の奥には小さな池が見え、ほとりには灯篭が置かれている——水の出入りがある、清潔な池だ。僕は五脚並びのベンチのいちばん端に座っていた。葉が落ちきったわびしい桜やらその他の広葉樹の方を眺めているあいだに、灯篭の横に置かれた大きな天然の石が太陽の光で温められ、その上に野良猫がやってきて丸くなった。ここに越してきたとき、僕は はずれ のアパートメントをひいたと思ったが、この中庭だけは例外だった。ここの主——つまり、僕が会ったことのない大家——にとってもこの中庭は最大の関心ごとらしい。なにしろ共用廊下の電灯が切れていたり、壁の塗装がひび割れたりしていてもいっこうに直す気配がないのに、中庭だけはいつでも綺麗に整えられているのだ。下草や生垣は短く刈られ、灯篭は苔むす暇もなく汚れが洗い落とされ、落ち葉がきちんと掃除されている。  都心近くに位置する集合住宅にしてはめずらしいサイズの中庭だというのに、僕の妻を含め、他の居住者にはいっさい魅力的でないらしい。僕はこのベンチの上で、次から次へと出版されるカート・ヴォネガットの講義録を読んだり、JBLの小さなスピーカーで音量を絞って音楽を聴いたり、時には何もせずに浅く腰掛けては空を見上げ、葉がある季節にはその間からぼんやりと漏れ出てくる陽光を楽しんだりした。しかしそんなことをしているのはだいたいが僕と一階に住む老人たちだけで、時々バルコニーに出てくる若い主婦は僕のことを気味が悪そうに見下ろしながら、洗濯物にいくつものピンチを挟んで厳重にとめるのだった。 「だって、怖いもの。あなたって、なんというか……別の平面に生きてるって感じ」  平面、という表現を妻は最近やたらと気に入っていた。なにか哲学の入門書で見かけた言葉で、要するに、「変である」ということを言いかえると、「別の平面上で生きている」ということになるらしい。僕は建築学科の学生が組み立てたボール紙の模型をイメージする。光をたくさん取り入れられる窓の形、音楽的に飛び出たりへこんだりする壁の意匠——幾層にもわたってそういう上澄のような居住平面が広がった後、最下層には洗練の残りかすみたいなものが沈澱している。つまりはそれがこの大きな中庭であり、老人たちの住...

消音都市1

作者: 沼熊  藤蒔市をおとずれた者ならだれでも、その都市での時間の進みかたは他と根本的に違うと感じることでしょう。じっさい、あの都市には過ぎ去った時間とこれからきたるべき時間が混在しております——まるですべての瞬間が記録された分厚いアルバムを逆さにして床にばらまいたように、その平面の上は完結しているのです。それは、たとえば東京の渋谷駅前がいつまで経っても変化しているのとは大違いです。藤蒔市には始まりも終わりもありません。もっと厳密にいいましょう。原理的には、藤蒔市には 時間が流れていない はずなのです。しかし旅人には、違和感こそあれ、その都市に入った瞬間に時間が停止したという感覚に陥ることはございません。それは、藤蒔市のさまざまな場所に、記憶や因果関係の痕跡が巧妙に隠されているからです。青い屋根まで伸びたつる植物の足元には、プラスチック製の支柱がついた植木鉢があります。そこにはどの瞬間も一様に存在しています。けれど、その全体を見渡せば、子供が植えたつるが長い時を経て伸び、繁殖し、青い屋根に到達したのだと気づくでしょう。  そう、藤蒔市には時がなく、記憶がなく、因果がなく、その代わりに物の配置があります。すべての建物、すべての道路、すべての植物、そしてすべての人間が、時の流れを錯覚させるよう巧妙に配置されております。  中央駅と市役所通りをつなぐアーケード街にはもはや人は歩いておらず、肉屋や金物屋の錆びかかった看板の合間に今でも元気なのはけたたましい光を散らす遊技場くらいのものです。しかし、その上にかかった七夕のリボンはどうでしょう?クリスマス会や地元のラグビーチームの試合の案内は?それらは季節がめぐるごとに取り替えられているようでいて、その実、ずっとそこにあったものなのです。かつて道幅いっぱいに人が溢れかえったということも、今では灰色の服を着た二、三の人間が遊技場に吸い込まれ、吐き出されていくということも、つねに、すでに、そこにあったものなのです。  この都市ならではの活発な商業に出会うことは、ほかの地方都市同様に少し難しいでしょうが、旅人は郊外のショッピングモールまで歩けばおおよそ必要なものを手に入れることができるでしょう。藤蒔市には、だいたいすべてのものがございます。でも、そこを後にし、どこか似たような街の、似たようにさびれた商店街に足を踏み入れた旅人は、そ...

ベランダ

作者: 沼熊  ベランダのプランターに芽が出ていた。二週間前にスーパーで買った果実の種を、空いている場所に適当に植えて、毎日水をやっていたものだ。彼はしゃがんでその芽をよく観察した。子葉は本葉と全く形が違っていて、細長い。彼は芽を流してしまわないように慎重に水をやって、それから部屋に入り、iMac の前に座って書きかけのメッセージに戻った。今回の案件も成功した、ありがとう。部屋の中で完結できる仕事を得てから彼の暮らし向きは大きく変わった。理不尽な要求をしてくる人間との関わりもなければ通勤電車の苦痛もない。クライアントと顔を合わせないまま全てが終わる。指示があって、納品して、修正指示があって、納品して、口座の残高が増えて終わり——ほんとうに必要があれば、電話くらいはするが。  とにかく、彼は、会社をやめてからめっきり人と話す機会が少なくなってしまった。それは想像していたことだし、想像していたほど寂しいことでもなかった。どうせ学生時代の友人は軒並み疎遠だし、趣味の友人などいないにも等しいが、本を読んで映画を見ていれば意外と問題ない。どうやら、人間には一日にやりとりすべき文字数があって、それは話す、聞く、読む、書く、どれで埋めてもいいらしい。  メッセージを書き終わり、ふと外を見ると、ベランダに紫色の煙が滞留している。掃出窓のそばまで行っておそるおそる覗くと、その煙はさっきの芽から放出されているのがわかった。卓上に置く小さな加湿器のように、リズミカルに、芽の大きさからすればとんでもなく太い煙を吐いている。彼が少しだけ窓を開けると、シュッシュウという小さな音がして、少量の煙が部屋の中に流れ込んできた。古い公園にある公衆トイレを濃縮したようなとんでもない臭いがした。彼は慌てて窓を閉め、ほかにどうすることもできず、椅子に座って外を眺めた。芽はすごい勢いで紫色の煙を吐き出し続けている。ベランダはとっくに煙で覆われてしまって、さっきの残り香か、それともどこかから侵入してきているのか、かすかな臭いがした。彼は部屋を出て、玄関の方に向かった。細く扉を開けてみると、こちらにも煙がまわっていて、むせた。  避難するべきか?でも、どこに?彼はスマートフォンを取り出して、自分が住む街の名前でSNSを検索してみたが、紫の煙に関する情報は皆無だった。天気とか、パチンコ屋の情報とか、そんなものばか...

埠頭

作者: 沼熊  確実に沈められる場所を探すところからはじまった。遠浅の砂浜を果てしなく押していくわけにも、四つ足をそれぞれ持って神輿みたいに運ぶわけにもいかない。かといって崖から落とすわけにもいかない。水に沈む前に、まちがって岩にでも鍵盤が当たれば大惨事だ。村の人間全員が起きてしまうような音だ。彼らはどこからともなくやってきて、まちがいなく、僕たちを問い詰めるだろう……。  だから、場所は慎重に探す必要がある。  O市の近郊に車で入りやすい埠頭が数ヶ所あって、僕たちは借りた車でそれらを順番にまわった。条件に合うところはなかなか見つからなかった——ひとつは真下の海が浅すぎ、ひとつはコンビニエンスストアに近すぎ、ひとつは水面から突き出すごつごつした岩が悪印象だった。そうやって、紙に印刷した候補にひとつずつ赤ペンでバツをつけていった。  紙に地図を印刷したのなんていつぶりだろう?  おそらくまだ、あの田舎町にいたときのことだ。僕は父親が印刷した海浜公園の地図に、赤ペンでマルをつけていった——魚とりのしかけをセットした場所に。あれから、僕は故郷を出、父親は亡くなり、それから一緒にすごす人間は、すくなくとも、かなり劣悪になった。いつから、こうなったんだろう。 「そこ、左」 「え?」 「あーあ。次の信号で大通りを右に入って、でぐるってまた回って」 「ごめん、ぼーっとしてた」  助手席の彼女はそっぽを向いて、窓の外に煙草の煙を吐き出そうとしていた。カーシェアの会社に車内での喫煙がばれたら大問題になるが、彼女は生まれながらの悪人だったので、そんなこと気にしないのだ。彼女については僕はあまり詳しいことを知らない。あくまで、今回沈めようとしているピアノを介した関係というだけ。  僕は大通りを右に入り、ぐるりと回ってまたさっきのバイパスに入った。潜り込んだ、といったほうが似合う。土曜日で車の流れは多く、道の両脇には釣具店や葬儀屋が見える。こいつら、こんなにとろとろ走って、どこに何をしにいっているのやら見当がつかない。  僕がそういうと、彼女は、「皆海になにかを捨てにいっているんだよ」といった。僕は内陸育ちだったので、そういうこともあるのだろうかと思った。  最後の候補地、すなわちまだバツがついていない埠頭にたどりつくには、舗装された道から降りる必要があった。僕はこんどは正しいタイミング...

王子

作者: 沼熊  その片側二車線の産業道路に歩道はなく、王子は車に接触しそうなぎりぎりのところをすごい速さで進んでいた。王子がアスファルトを一度キックするごとに、彼の体は数メートルも浮き上がり、車を数台飛び越えるほど前に進んだ。ときどき、横からの風に煽られて着地の位置が少し内寄りになり、驚いた運転手がクラクションを鳴らした。道路沿いには駐車場の広い様々な店——ホームセンター、紳士服店、ファミリーレストランなどが並んでいたが、合間にはまだまだ多くの田畑も残っていた。王子はすごい速さで跳びながらも、左右をながめ、どこか酒が飲めそうな店はないかと探した。なさそうだ。もうすぐ日が暮れる。 「気をつけな!」また強い風が吹いたときに、ロードバイクで並走していたテジマが注意した。王子は空中でバランスを崩したが、なんとか耐え、白線の上をまた蹴った。  テジマは王子の唯一の友達であった。王子の両親よりもずっと彼のことを気にかけていた。  王子というのは、もちろんあだ名である。彼はきらびやかな王族に生まれたわけではなく、山陰地方のつつましい一軒家に、教員の家庭に生まれた。少年が生まれた夜、彼の父親は村の皆がつどう大規模な賭け麻雀で逮捕され、それ以後家に帰ってくることはなかった。  少年は母と、母方の祖父母によって育てられた。祖父母は少年の家から車で二十分ほどのところに住んでいた。昔ながらの地主で、人をたくさん雇い入れて高級フルーツを栽培しており、裕福だった。少年は、幼少期を家族や、親切な農園の使用人たちに囲まれながら、フルーツをたくさん食べて幸せに過ごした。少年は(家族以外からは)愛情を込めて王子とよばれはじめた。  そのうちに小学校に上がり、毎年健康診断をするなかで、王子の母親は奇妙なことに気づいた。王子の身長は同年代の平均をやや上回るペースで推移していたが、体重が減少し続けていたのである。  小学校五年生のころ、王子の身長は百五十一センチだった(これはクラスで三番目に高かった)。ところが体重は、十八キロだった(これはクラスの平均値のおよそ半分くらいだった)。  体重以外のことについていうと、王子は健康そのものだった。年に一度、クラスで流行していたインフルエンザや、その他の流行病にかかるかどうかといった具合で、それ以外はいっさい病気をしなかった。また、見た目だって痩せぎすに見えたかと...