アルヘシラスイメジャリ

作者: 沼熊

 天気の良い日にはアフリカ大陸が見えるのだと、その宿の主人が教えてくれた。僕はどうにかして大陸の影を捉えようと目を凝らしたが、そこには空を厚く覆う雲が、海との間までずっと続いているばかりだった。水面の動きはほとんど感じられないほどに凪いでいた。

 宿の庭、一面にほどよく手入れされた芝生の中に離れがあり、僕はそこに案内された。気温よりもずっと涼しく感じた――離れは白い石造りで、風の音がよく聞こえるので、部屋の中にいてもなんとなく海に向かって晒されているような感じがしたものだ。ここは常に旅行者に向けて解放されているらしかった。何人もの旅行者が、ここでアフリカからやってくる乾いた風の中で眠ったのだろう。僕は離れにある狭いシャワールームで熱い湯を浴びたあと、少しくたびれた臙脂色のシーツの上で、遅くまで深く眠った。

 次の日は晴れていて、僕は起きるとすぐに海を見るために外へ出た。薄い膜を通ってきたかのように柔らかい日光が当たった。昨日よりも風も波も少しだけ強い。海の向こうに、アフリカ大陸がかすかに見えた。初めて見るそれは水を含みすぎた墨汁のように、黒く空と海に溶け出している染みのようなものでしかなかった。しかし、あれがまごうことなきアフリカ大陸だ――人類は皆そこからきたのだ。

 宿の主人が起きてきて、僕を朝食に誘ってくれた。中庭は椅子とテーブルのセットが設えられていて、主人はそこにパンとコーヒーを運んできた。どこにいくのかと主人が聞いた。僕が船でアフリカ大陸に渡ろうと思っているのだというと、微笑んで、それはいい旅だ、と二回言った。

「ずいぶん長いことアフリカには行っていない。こんなに目と鼻の先にあるというのに……」と彼は残念そうに言った。「アルヘシラスの港からタンジェに行くのか」

「ええ。そうするつもりです」

「私も昔は、仕事でタンジェによく行ったものだ。まだ飛行機での旅行など考えられなかった頃の話だよ。とっくに仕事は辞めたが、時々もう一度あの景色を見たいと思う時がある。しかし膝が悪くて、それはかなわないのだ」

「なんの仕事を?」

「偽物のオリーブ油を輸出していたんだ」主人はにやりと笑って言った。「それがどういう仕事か、想像がつくかね」

 宿の主人は僕の顔を見ると、答えを待たずに続けた。

「ペンキ用の四角い缶いっぱいに安くて無害な植物油を詰めて、適当な産地を書き加えてから船で運ぶのだ。タンジェにつくと、身元もわからない男たちが寄っていって、それをいくらか私の言い値で買って行った。まったく怪しい奴らばかりだったよ。そいつらの目を見ればすぐにわかるのだ、彼らが偽物とわかって買っていること、騙されるのはその先にいる誰かだということが。そんなことでは私の良心は痛まなかった。目の前にいる人間をはっきりと騙すのでなければ、担いでいる罪の意識などほとんど取るに足らないものになる。そういうものだ」

「それを毎日ですか」

「毎日だ」主人は海の方を見やった。遠くのほうに大型の石油タンカーが一隻見えた。それはどちらに進んでいるのかもわからないほどに漠然と存在していた。「だからあの大陸には、私が売った偽物のオリーブ油でできた人間がたくさんいるのだ」

 その悪事は過去と今で完全に断絶しているのであろうと思わせるような口ぶりだった。とはいえ、僕はそこに悪人特有のナルシシズムを感じた。

「きみ、タンジェで何をしようと思っている」主人は聞いた。「あそこには旅行者がやるようなことは何もないぞ」

「まだ決めていないんです。ただ、ここまできたからにはアフリカの土を踏んでやろうと、それだけを考えているんです」

「オリーブオイルを味見してきてくれ。そしてどうだったか聞かせてくれないか」

「機会があったら」僕は曖昧に答えた。

 それから僕はバスに乗って港へと向かった。そこで旧い友人と合流することになっていたのだ。彼はいまパリの近郊にある小さな町、あの牛の生肉を使った不思議な料理を出すこと以外にはとりたてて何もない場所に、住んでいるということであった。

 港の中にある待ち合わせのコーヒーショップに、彼は先についていた。彼は僕の姿を認めると、手も上げずに目線だけで挨拶を送ってよこした。つい昨日もこうやって待ち合わせていたかのようなやり方だった。

「何年ぶりだろう」と僕は挨拶した。

「まったく変わらないな。あまりに変わっていても、おかしいけれども」と彼は僕を評して言った。

 みたところ彼も僕の記憶からはたいして変わりがなかった。昔いつも着ていたものに似た総柄のリネンシャツにハーフパンツといういでたちだった。それでは寂しいような気がして、僕は彼の変化を無理やり探した。肌の色が若干濃くなっているようにも見えた。髪は少し伸びており、以前の彼からは考えられないほど雑な仕立てになっていた。フランスで床屋を探すのに苦労しているのだろうと、僕は想像した。

 あいつも、あいつも、スペインにいるらしいぞ、と、彼は僕がこの度の話題を出さないうちに、かつての友人の名を二、三言った。

「誘ってみればすぐにくるかもしれない」

「そんなことはやめておこう」僕は言った。「大げさな旅にはしたくないんだ」

「ふたりより楽しいかもしれない」

 一人のほうがずっとよかったよ、と僕は言いそうになって口を噤んだ。観光地に行くんじゃないんだから、たくさん友人を呼んでも仕方がないことだと、僕は彼を丁寧に説き伏せた。

 彼との関係はかつてほど楽しいものではなくなっていた。それというのも彼がバンドを始めてからのことだ。あちこちの小さなステージに呼ばれることに疲れ、僕が何かと都合をつけて誘いを断るようになってからも、彼は時折招待をくれた。僕は濁すような返事を続けていたが、ついに連絡を絶やしてしまった。彼が久しぶりのライブハウス以外への誘い、つまりこの旅行を提案してきたのは、それからかなり経ってのことだった。僕は演奏を見に行くのを散々断り続けた手前、この話までも断るわけにはいかなかったのだ。

 彼と短い話をした。彼は不自然なくらいにバンド活動の話をせず、それが却ってこちらに気を遣わせた。かわりに、彼はもっと抽象的な物事を話し続けた――「もうやりたいことばっかりやれる年齢じゃないよな」、と彼は折に触れて何度も年齢の話をした。僕に言っているのか、それとも自分自身に確認しているのかもわからない口調で。

「二十代のうちに行っておきたいところがいくつもあるんだ」

「そんな話はやめよう」

「どうして」

「終わりに向かって進んでいるような気分になるのは大嫌いなんだ」

「でもじっさいに、終わりに向かって進んでいるだろう」彼は笑った。「二十代で行けたらギリギリ、セーフだろう。インドも、マチュピチュも、アメリカを横断するのも――それからアフリカの土を踏むのだって」

「そんなつもりじゃない」僕は若者の旅行のテンプレートに並べられることを嫌って言った。

「わかっているくせに。三十代になってからこの種の冒険をしたって、とうてい見ていられないものに成り下がるだけだ。若造りの化粧と同じさ」

「厳しい言い方だ」今度は僕が笑った。

「だから俺は、なんとか見ていられる年齢のうちにカウントダウンして、そんな旅行を全部やろうって急いでいる」

「俺は逆だね。そんなことは考えたくもない。あと何年かで擦り切れるものがあるなんて考えるだけで憂鬱だ」

「どのみちゴールは一緒さ。どちらも必死に逃げているんだ」と彼が言った。彼のいうことにも、一理あるのかもしれなかった。

 出航の時間がだんだんと近づいてきて、自動車を運び込む者たちが先に列をなした。どれも灰色で面白みのない車で、運転手たちは皆一様につまらなそうな顔をしていた。係員がぼんやりと腕を振ると車はのろのろと進み、船の中へと消えていった。席からガラス越しに、友人はその様子をじっと見ていた。

「眺めるほどのものでもないだろう」と僕は言った。

「うん」

「ああやってゆっくり船に押し込められることが、なにかの象徴にでも見えたか」

 彼は答えずに、しかし恥じたように目線を積み込まれていく車から外した。僕は自分の嘲笑的な言い方に嫌気がさした。列が進むたびに車のテールランプが前から順番に消えていき、止まるたびにまた点いていった。どれもこれもどこかにひどくぶつけたようにリアのバンパーがへこんでいた。

「車もないのに、無事に帰ってこれるかな?」しばらくして彼がぽつりと言った。

「大丈夫だろう」と僕は深く考えもせずに言った。

「ほんとうに?モロッコは何語だろう」

「さあ。よく知らなかった」

 彼は手元でそれを調べた。

「フランス語だ。わかる?」

「まったく」

「俺もだ」

「なんとかなるよ」

「数のひとつも数えられないんだぞ」

「大丈夫だって。さっき言っていたことを忘れたのか? 『二十代でギリギリ成立する旅行』なんだろう。多少向こう見ずになるべきところだ。しっかりしろよ」

 彼は僕のいうことが聞こえないようだった。「向こうにはおそらく、駅はない。港から少し行けばすぐに砂漠だ。どうやって移動するんだ? 言葉の通じないやつのタクシーに乗って何十キロも走るつもりか?」

「必要があれば、そうするしかない」

「そんなことができるとは思えない」

「そんなに心配か」僕は聞いた。「それならここに来る前に調べておくとか、いくらでもやりようはあっただろう」

「その時はなんとかなると思っていたんだ」

「なんとかなるよ」

「そうは思えない」

「しっかりしろ」僕はイライラして言った。「それでもバンドマンか」

 僕はかっとなって関係のない物事を持ち出したのだ。もっとも、そのことに気がついたのはずっと後からになってのことだ。

「バンドは辞めたんだ」

「すまない。関係のないことだった」

「いいんだ」彼は言った。「せっかくだけれど、やっぱり俺は行かないことにする。こちらから声をかけたのに済まなかった」

「そうか」僕は疲れていた。「わかった」

 彼がなぜ突然アフリカへの同行を辞めたのか、その時の僕は考えもしなかったし、結局はっきりとしたことはわからずじまいだった。ほんとうに、急に車のない旅が怖くなったのだろうか? あれだけ、向こう見ずであることを礼賛しているかのように見えた彼が? コーヒーショップから出ていく彼を見送りながら、僕は彼と会うのがこれで最後になるのだろうという予感がした。彼が今はどんな仕事に就いていてどのような生活を送っているのかという、もともとそれほど興味のなかったあれこれを聞く機会も同時に、永遠に失われてしまった。

 乗用車の積み込みが終わり、徒歩の旅行者の番になった。僕は船のやや後部にある窓際の席に乗り込んだ。隣には誰も座ってこなかった。ひとりになり、港に着いたらどうしようと考えている間に、船は出航した。少ししてから悪路を走っているかのような連続した揺れが来た。僕は目を閉じて、背もたれに寄りかかった。

 パスポート、という声で僕は再び目を開けた。目の前には髭の濃い、浅黒い肌の男が立っていた。

「なんですって」と僕は聞いた。

「パスポートを出してください」

 周りの乗客は皆パスポートと検疫のチェックシートを係員に提出している。ああ、船旅ではここで入国のスタンプを押すのだ。僕がパスポートを手渡すと男は手早く適当なページを開いてアラビア語のスタンプを押した。どこかの国の空港で押された色褪せたスタンプと、先ほど産み落とされたばかりの黒々としたサインが脈絡もなく並んだ。面倒な質問はおろか一切の会話もなく、これまでで一番あっけない入国の儀式だ。僕は窓から航路の先を見た。アフリカの土にはまだだいぶ遠そうに見えた。こちら側に切り立った崖が見えていて、そこにもアラビア語の白い文字で何かが書かれている。

「あれはなんと書かれているのですか」

「チェックシートですか?」係員がこちらを見ずに答えた。

「いえ、《あれ》」

 係員は訝しげに僕の目線をたどり、アフリカ大陸の端に刻まれた文字を認めた。それから面倒そうに答えた。

「ああ、あれ。私もよくわかりません」

 それきり彼は行ってしまった。僕は一人でその文字を眺め続けながら、あそこにはまたこれまでとは違う常識を持った人間が数多く存在しているのだと思った。それから、お前は二十代であれを見なかったのだ、と、友人に心の中で何度も呟きながら、パスポートを貴重品入れにしまって鞄の奥深くに押し込んだ。