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ベランダ

  作者:沼熊  ベランダのプランターに芽が出ていた。二週間前にスーパーで買った果実の種を、空いている場所に適当に植えて、毎日水をやっていたものだ。彼はしゃがんでその芽をよく観察した。子葉は本葉と全く形が違っていて、細長い。彼は芽を流してしまわないように慎重に水をやって、それから部屋に入り、iMac の前に座って書きかけのメッセージに戻った。今回の案件も成功した、ありがとう。部屋の中で完結できる仕事を得てから彼の暮らし向きは大きく変わった。理不尽な要求をしてくる人間との関わりもなければ通勤電車の苦痛もない。クライアントと顔を合わせないまま全てが終わる。指示があって、納品して、修正指示があって、納品して、口座の残高が増えて終わり——ほんとうに必要があれば、電話くらいはするが。  とにかく、彼は、会社をやめてからめっきり人と話す機会が少なくなってしまった。それは想像していたことだし、想像していたほど寂しいことでもなかった。どうせ学生時代の友人は軒並み疎遠だし、趣味の友人などいないにも等しいが、本を読んで映画を見ていれば意外と問題ない。どうやら、人間には一日にやりとりすべき文字数があって、それは話す、聞く、読む、書く、どれで埋めてもいいらしい。  メッセージを書き終わり、ふと外を見ると、ベランダに紫色の煙が滞留している。掃出窓のそばまで行っておそるおそる覗くと、その煙はさっきの芽から放出されているのがわかった。卓上に置く小さな加湿器のように、リズミカルに、芽の大きさからすればとんでもなく太い煙を吐いている。彼が少しだけ窓を開けると、シュッシュウという小さな音がして、少量の煙が部屋の中に流れ込んできた。古い公園にある公衆トイレを濃縮したようなとんでもない臭いがした。彼は慌てて窓を閉め、ほかにどうすることもできず、椅子に座って外を眺めた。芽はすごい勢いで紫色の煙を吐き出し続けている。ベランダはとっくに煙で覆われてしまって、さっきの残り香か、それともどこかから侵入してきているのか、かすかな臭いがした。彼は部屋を出て、玄関の方に向かった。細く扉を開けてみると、こちらにも煙がまわっていて、むせた。  避難するべきか?でも、どこに?彼はスマートフォンを取り出して、自分が住む街の名前でSNSを検索してみたが、紫の煙に関する情報は皆無だった。天気とか、パチンコ屋の情報とか、そんな...

埠頭

作者:沼熊  確実に沈められる場所を探すところからはじまった。遠浅の砂浜を果てしなく押していくわけにも、四つ足をそれぞれ持って神輿みたいに運ぶわけにもいかない。かといって崖から落とすわけにもいかない。水に沈む前に、まちがって岩にでも鍵盤が当たれば大惨事だ。村の人間全員が起きてしまうような音だ。彼らはどこからともなくやってきて、まちがいなく、僕たちを問い詰めるだろう……。  だから、場所は慎重に探す必要がある。  O市の近郊に車で入りやすい埠頭が数ヶ所あって、僕たちは借りた車でそれらを順番にまわった。条件に合うところはなかなか見つからなかった——ひとつは真下の海が浅すぎ、ひとつはコンビニエンスストアに近すぎ、ひとつは水面から突き出すごつごつした岩が悪印象だった。そうやって、紙に印刷した候補にひとつずつ赤ペンでバツをつけていった。  紙に地図を印刷したのなんていつぶりだろう?  おそらくまだ、あの田舎町にいたときのことだ。僕は父親が印刷した海浜公園の地図に、赤ペンでマルをつけていった——魚とりのしかけをセットした場所に。あれから、僕は故郷を出、父親は亡くなり、それから一緒にすごす人間は、すくなくとも、 かなり 劣悪になった。いつから、こうなったんだろう。 「そこ、左」 「え?」 「あーあ。次の信号で大通りを右に入って、でぐるってまた回って」 「ごめん、ぼーっとしてた」  助手席の彼女はそっぽを向いて、窓の外に煙草の煙を吐き出そうとしていた。カーシェアの会社に車内での喫煙がばれたら大問題になるが、彼女は生まれながらの悪人だったので、そんなこと気にしないのだ。彼女については僕はあまり詳しいことを知らない。あくまで、今回沈めようとしているピアノを介した関係というだけ。  僕は大通りを右に入り、ぐるりと回ってまたさっきのバイパスに入った。潜り込んだ、といったほうが似合う。土曜日で車の流れは多く、道の両脇には釣具店や葬儀屋が見える。こいつら、こんなにとろとろ走って、どこに何をしにいっているのやら見当がつかない。  僕がそういうと、彼女は、「皆海になにかを捨てにいっているんだよ」といった。僕は内陸育ちだったので、そういうこともあるのだろうかと思った。  最後の候補地、すなわちまだバツがついていない埠頭にたどりつくには、舗装された道から降りる必要があった。僕はこんどは正しいタイミング...

王子

作者: 沼熊  その片側二車線の産業道路に歩道はなく、王子は車に接触しそうなぎりぎりのところをすごい速さで進んでいた。王子がアスファルトを一度キックするごとに、彼の体は数メートルも浮き上がり、車を数台飛び越えるほど前に進んだ。ときどき、横からの風に煽られて着地の位置が少し内寄りになり、驚いた運転手がクラクションを鳴らした。道路沿いには駐車場の広い様々な店――ホームセンター、紳士服店、ファミリーレストランなどが並んでいたが、合間にはまだまだ多くの田畑も残っていた。王子はすごい速さで跳びながらも、左右をながめ、どこか酒が飲めそうな店はないかと探した。なさそうだ。もうすぐ日が暮れる。 「気をつけな!」また強い風が吹いたときに、ロードバイクで並走していたテジマが注意した。王子は空中でバランスを崩したが、なんとか耐え、白線の上をまた蹴った。  テジマは王子の唯一の友達であった。王子の両親よりもずっと彼のことを気にかけていた。  王子というのは、もちろんあだ名である。彼はきらびやかな王族に生まれたわけではなく、山陰地方のつつましい一軒家に、教員の家庭に生まれた。少年が生まれた夜、彼の父親は村の皆がつどう大規模な賭け麻雀で逮捕され、それ以後家に帰ってくることはなかった。  少年は母と、母方の祖父母によって育てられた。祖父母は少年の家から車で二十分ほどのところに住んでいた。昔ながらの地主で、人をたくさん雇い入れて高級フルーツを栽培しており、裕福だった。少年は、幼少期を家族や、親切な農園の使用人たちに囲まれながら、フルーツをたくさん食べて幸せに過ごした。少年は(家族以外からは)愛情を込めて王子とよばれはじめた。  そのうちに小学校に上がり、毎年健康診断をするなかで、王子の母親は奇妙なことに気づいた。王子の身長は同年代の平均をやや上回るペースで推移していたが、体重が減少し続けていたのである。  小学校五年生のころ、王子の身長は百五十一センチだった(これはクラスで三番目に高かった)。ところが体重は、十八キロだった(これはクラスの平均値のおよそ半分くらいだった)。  体重以外のことについていうと、王子は健康そのものだった。年に一度、クラスで流行していたインフルエンザや、その他の流行病にかかるかどうかといった具合で、それ以外はいっさい病気をしなかった。また、見た目だって痩せぎすに見えたかとい...

負けることについて

作者: 沼熊  阪急電車の端の座席を確保した長井の左膝で、スマートフォンが二回、短く震えた。「ほんま、佐藤のホームランやばない」「八回の」と、友人の平岡からラインが来ていた。  弱さに憂き目をみるあれこれは、今では懐かしいくらいである。  ここ五年で優勝(日本シリーズ準優勝)、優勝(日本一)、優勝(日本一)、二位(クライマックスステージで日本シリーズ進出、準優勝)、優勝(日本一)。今年も九月の早々にマジックを点灯させ、今日の試合で二位のベイスターズが敗れたためにその数は十一まで減った。誰がみても黄金期であることに間違いない。  しかし、それが――率直にいえば、少し寂しいという気さえする。おれのような阪神ファンのことをなんと呼ぶのだろう、と長井は考えた。世の中には、阪神が強いときにだけ応援するにわか阪神ファンという人種がいる。長井はいわばその逆――まあ、逆とはいわないまでも、それと相容れないなにかだ。平岡からのラインが来たとき、長井の脳の中でそういった微妙な情念たちが接続された。  そして、スポーツバーにサッカーを見に行きたい、という意外な衝動がアウトプットされた。  それは、こんなふうにである。長井はかつて、サッカーファンの友達と一緒に住んでいたことがあった。彼は部活生のように髪を短く刈り込んだ大男で、日本でもトップクラスに有名な銀行に勤めていた。彼のいうところによると、スペインにはふたつの強いチームがあり、そのどちらかを応援している。ときおり(サッカーはシーズンの試合数がすくないので)、長井が深夜につきあいでそれをみていると、そのチームがあまりにも勝つことに驚いた。一シーズンを通して二桁は負けないくらいである。特にその年に調子が良かったと言うわけではなく、毎シーズンこんな感じなのだそうだ。それを聞いた時には、このような世界もあるのだと驚いた。それ以来、長井の体の一部に、圧倒的に敗者であり続けること、そういった世界に対する興味が、昆虫の蛹のように控えめに眠っていたのだ。  家路の途中、三宮駅を少し行った繁華街の地下に、スポーツバーがある。時差の関係で、ヨーロッパ時間ではお昼キックオフのゲームが始まっているはずだ。  スポーツバーの入り口をくぐると中は混み合っていた。関西弁に混じって幾つかの国の言語が聞こえてくる。長井はとりあえず大きなビールの代金を支払い、空いている...

作者: 沼熊  こんなにはっきり見えるとは思っていなかったので、ちょっとユーモラスですらあった。高木が仕事から帰ると、アパートの階段の下に、身なりのよい子供が立っており、道ゆく人をじっと眺めていた。髪は西洋風になでつけられており、パリッとした明るめの紺のブレザーと、揃いのトラウザー。この田舎村では珍しい格好なのに、だれ一人としてそちらを気に留めないから、高木にしか見えないのだとわかった。少年のほうは、こちらには見向きもしない。通行人が数名、むしろ高木のほうをちらちらと、不審そうな目つきで見た。 「数日中には、もしかしたら幻覚が見えはじめるかもしれません」二日前に医者は言った。高木は脳神経系の難病にかかり、幾人もの医者の紹介を経て、やっとのことで大都市Qの総合病院にたどり着き、そこで世界的にみても数例しか実績のない特殊な手術を受けたのだった。 「幻覚、ですか……」 「怖いですか」医者が案じるような調子でいう。 「ええ、まあ」  夏の病棟に風が吹き、レースのカーテンが揺れて、その向こう側にある太陽光がこぼれてきた。高木は、照らされたその白い壁や廊下のうえに、水墨画のように意味を持った模様が次々と浮かび上がる様子を想像した。幻覚ときいても、イメージできるのはその程度のものだった。 「目を閉じても、幻覚は消えません。あたりまえといえば、あたりまえのことですが」医者は自分が苦しんでいるかのように顔をしかめながら言った。「睡眠薬を追加しておきますから、もしほんとうに耐えられないほどのイメージにおそわれたときはそれをお使いなさい。もっとも、これは最終手段なのであまり高頻度で使わないように。あまりにもおつらいときは病院に電話してください。では、おだいじに」  病院を後にし、高木は今にもおそろしい幻影が見えるのではないかと戦々恐々としながら、それでも翌日から会社には普段通りに出勤した。都心のオフィスビル街を歩いていると、それまでにも毎日見ていたその人混みの中に幻覚が二、三人紛れていたって分かりようがないという考えに囚われはじめる。どこかで死んだ自分の祖父母とすれ違っているかもしれない、狼男が乗車してくるかもしれない、改札で目の前を歩く人間には顔がないかもしれない……。高木はいま地下鉄のプラットフォームを歩く人たちを生成しているのだ。この人間たちはどんな怪物だってありえる。原理的にいえ...

無限論の帰路

作者: 沼熊  俺はどちらかというと〈無限〉とはトリックのようなものだと思うが、親友のユキチにとっては違うらしい。彼は楽しいときには永遠に楽しいのだというような感じで笑い、悲しいときにもまた然りでいつまでも泣いている。そうやって次の日また通学路で会ったときには、こっちの心配をよそに昨日のことなんてなかったかのような顔でけろっとしているのだから、そんなのないよなって思う。  ある日数学の授業で、先生が無限をその手で取り扱ったのを目撃した。大それたことだ。俺たちの数学の先生は五十歳を超えていてどうやら独身だし、授業中ぽりぽりと白髪頭を掻いては大きなフケが背広の方にひらひらと落ちて汚い。そんな先生が一瞬で無限を取り扱って、世界をそれまでのものと一変させてしまった。先生がすごい遅さで板書した上段の式には、「なんとか、たすなんとか、たすなんとか……、てんてんてん」で最後のほうは書ききれなくなっている。下段にはそれぞれ両辺を二分の一した数式、これも最後はてんてんてん、だ。それから、先生は上段から下段を引き去った。そしたら、両辺が魔法のようにすっきりして、で、Sとかなんとか、ある特定の値が定まっておしまい。  俺は斜め前の方にいる優等生のユウキをみていた、なんか神妙な顔をしていたけど、先生が今やったことの重大性にこれっぽちも気がついちゃいない、あいつはそういうやつなんだ。しかし、俺はこれはペテンだとわかっている。無限を一瞬にして生み出したり、消し去ったりできるのであればそれは世界のすべてを超えた能力であり、あの白髪頭にできるようなことではないことは確かだ。よく見るとあのおじいさん、腰も曲がっている。  というわけで、俺は休み時間にさっきのことについてユキチに聞いてみた。 「よくわからんけど、頭いいなと思った」と彼は言った。 「ペテンだとは思わなかった?」 「先生なんだぜ」  体育館の裏側、部室と目隠し用に植えられた樅の木の間でユキチは煙草を吸っていた。こいつはほんとうに変なやつだ。不良でもないのに休み時間には俺を連れてここに来る。そして煙草を半分まで吸う。味が好きなのだという。常に制服からは煙草の匂いがしていて、でも先生たちもこんなやつが煙草を吸うなんて想像もしていないから、父親が度を超えたヘビースモーカーなのだ、ということで奇跡的に信用されている。 「しかし、あんなに簡単に無限...

ジューンブライドプライド

作者: 沼熊  家に帰りリビングの扉を開けるやいなや、部屋のど真ん中にひとりで座っていたKがこちらを見上げて、すごい形相でべらべら話しかけてきた。どうやら『文學界』にまた新しい才能を見つけたらしい。 ――こんなに毎月毎月、すごい人間に出てこられてはたまらない。おおむね、そういう内容だった。俺だって努力を重ねているのに、報われないのはおかしいだろう。  すでに相当飲んでいるようだ。わたしは床に散らばったハイネケンの空き缶を拾えるだけ拾って、すでに緑一色になっていた玄関の大きなビニール袋に放り込んだ。こちらだって疲れている。わたしはごく冷静に思った。それでも、またリビングに戻る部屋の扉を開けると駄目なのだ。Kがその空間にいればそれだけで、自分が世界で一番恵まれた人間であるかのように錯覚してしまう。みなさま、どうかわたしに哀れみを――どういうわけか、彼にはそういう力があった。  ところで、彼の怒り、どうしようもない炎の感情が長続きしないこともわたしにはわかっていた。というか、それこそが彼が特定の――とりわけ忍耐力が必要とされる――分野ではなにをやっても成功しない原因そのものなのだ。予想通り、きっかり九十分が経過した頃に、彼のわたしに対する愚痴の口調が変わってき始めた。 「なにをやっても、うまくいかない」彼は悲しそうに言った。「俺はどうすればいいと思う」  わたしは彼に手渡されるまま、彼の最新の原稿を読み始めた。 「忌憚ない、率直な意見を聞かせてほしい」 「そう言われたって」とわたしは言った。「わたしには小説はわからない」 「いっさい、読まないの」彼は嫌な聞き方をしてくる。 「そういうわけではないけれど――」 「だったら、わかるだろう、好きか嫌いかくらいは」  わたしは彼に原稿を突き返した。 「だったら、これはなんだか嫌いな気がする」  彼は気にも留めないといった様子でそれを受け取った。わたしがちょっとムッとしたことを喜んでいるようにも見える。革張りのソファに深々と座り、まるで首が座っていないとでもいうように後頭部を背もたれに押し付けている。 「好きな作家は?」彼がわたしに聞いてくる。 「そうだなあ、マッカラーズとか」 「マッカラーズ? ああ」  知ったかぶり。わたしが彼に対して我慢ならない多くのことのひとつだ。スマートフォンで名前を調べはじめたのがまるわかりで、わたしはソ...