海岸
作者: 沼熊
ここは海辺なのだ、ピンとはりつめた暗闇の向こう側から波の音が聞こえ、俺は思い出した。息を深く吸い、四秒止めて、ゆっくり吐いた。この呼吸法は不眠の時期の名残で、そうするとどれほど見知らぬ土地でも心持が落ち着く。少しずつ、波の音の間隔が俺の呼吸にあってくるような感じがした。しかし同時に、関係のない血管の拍動が頭の中で大きくなりそのリズムを乱す。俺は起き上がってテーブルの上の水のボトルをつかみ、底に三センチほど残っていたぬるい水を飲み干した。
とにかく明日はどこへ行こうものか、なに一つ定まっていなくて途方に暮れた。俺はこういった日々を心の底から望んでいると思っていた。でも実際に会社を辞め、貯金と他人の善意を頼りに毎日をすごすという生活に入ってみると、本当に望んでいた生き方がこれだったのかどうか。達観した人間からみれば、所詮すべてはないものねだりなのだと、類型の箱に綺麗におさまるものごとのひとつなのだろう。しかし良くも悪くも自らのシステムを構築しきれていなかった当時の俺にとって、このことは重大な意義をもつ――ほんとうに自分はどんな生き方にも満足できないのではないか、と考えることは怖かった。
俺は体を起こしてベッドの端に座り、床に散らかった空き缶やらスナックの袋を足でどけながら、自分のサンダルを探り当てようとした。
「おはよう」
コテージの反対の端で丸く寝転がっている男のほうから声がした。
「すまない。起こしてしまったのであれば――」
「どうせ眠れなかったんだ」男は微動だにせずに言った。暗くてよくわからないが、こちらを見もせずに喋っているのだ。「おまえ、学生か」
「何故」
「働いているようには見えない顔だったから」
俺はそれを無視して立ち上がると、雑多なゴミを踏みつけながら音を立てないようにゆっくりと、ドアの方へと向かった。あちらを向いたままの男からはまた寝息が聞こえ始めた。俺は外に出た。
天球がところどころ破れていて、そこからピンク色の光が漏れ出てきていた。伸び縮みする地上の灯台よりもわずかに暗い。真夜中にも関わらず、ときどき海鳥がその破れ目に向かって数羽ずつ飛んでいく様子が見えた。俺もそうできればどんなにいいだろう、と思った。坂道をくだり松林を抜けると視界がひらけた。海は広い――むんむんするようなコテージの中に比べると驚くほど広い。俺は海へと近づいていった。海は水平線すれすれのところまで膨張しており、それぞれの波は折れ曲がりながら所々淡くサンゴのような色を反射させていた。
俺は適当なところに腰を下ろし、ゆっくりと息をしながら、天球の破れを見上げた。肉眼で確認できるほどの破れは数百あった。大きな破れがいくつかあり、そこに海鳥が吸い込まれていくのだった。俺は目を凝らして、その向こう側の、ピンク色の世界がどうなっているのかを確かめようとしたが、それはむずかしかった。
俺は立ち上がると、コテージへの道を走って戻った。でていくときの丁寧さが嘘のように、乱暴にドアをあけ、大きな音を立てながら中に入った。
「空が破れてる」寝ているのか起きているのかわからない男にそう言った。男は寝転がったまま、大義そうにゆっくりと動き、ややあってから、「ああ」と言った。
「空が破れて、ピンク色の光が海にさしている」
「そうか」
「嘘じゃない」
「疑っているわけではないよ」と男がゆっくりと言った。「おまえが見たものは――それは、おそらくほんとうに、そうなのだろう。俺にはなんの関係もないってだけのことさ」
俺はまたひとりで、海辺へと戻っていった。先ほどとは違っていくらかの人影があった。みな天球の破れを聞きつけて外に出てきたのだ。そのなかには、ゆうべのパーティーで見知った顔もいくつかあった。俺やこのひとたちは、こうやって天の綻びを、向こう側に見えるピンク色の世界を見ている。コテージにいる男はそれに関係がない。「それだけのことさ」と俺は声に出して言った。よく見れば、さっきとくらべると天球の破れは徐々に修復されているようで、小さく穴のようにみえる綻びは目に見えて減少しているのだった。それと同時に、水平線の方から闇が薄くなってきていた。あと一時間もすれば、日がのぼる。