ジューンブライドプライド

作者: 沼熊

 家に帰りリビングの扉を開けるやいなや、部屋のど真ん中にひとりで座っていたKがこちらを見上げて、すごい形相でべらべら話しかけてきた。どうやら『文學界』にまた新しい才能を見つけたらしい。

――こんなに毎月毎月、すごい人間に出てこられてはたまらない。おおむね、そういう内容だった。俺だって努力を重ねているのに、報われないのはおかしいだろう。

 すでに相当飲んでいるようだ。わたしは床に散らばったハイネケンの空き缶を拾えるだけ拾って、すでに緑一色になっていた玄関の大きなビニール袋に放り込んだ。こちらだって疲れている。わたしはごく冷静に思った。それでも、またリビングに戻る部屋の扉を開けると駄目なのだ。Kがその空間にいればそれだけで、自分が世界で一番恵まれた人間であるかのように錯覚してしまう。みなさま、どうかわたしに哀れみを――どういうわけか、彼にはそういう力があった。

 ところで、彼の怒り、どうしようもない炎の感情が長続きしないこともわたしにはわかっていた。というか、それこそが彼が特定の――とりわけ忍耐力が必要とされる――分野ではなにをやっても成功しない原因そのものなのだ。予想通り、きっかり九十分が経過した頃に、彼のわたしに対する愚痴の口調が変わってき始めた。

「なにをやっても、うまくいかない」彼は悲しそうに言った。「俺はどうすればいいと思う」

 わたしは彼に手渡されるまま、彼の最新の原稿を読み始めた。

「忌憚ない、率直な意見を聞かせてほしい」

「そう言われたって」とわたしは言った。「わたしには小説はわからない」

「いっさい、読まないの」彼は嫌な聞き方をしてくる。

「そういうわけではないけれど――」

「だったら、わかるだろう、好きか嫌いかくらいは」

 わたしは彼に原稿を突き返した。

「だったら、これはなんだか嫌いな気がする」

 彼は気にも留めないといった様子でそれを受け取った。わたしがちょっとムッとしたことを喜んでいるようにも見える。革張りのソファに深々と座り、まるで首が座っていないとでもいうように後頭部を背もたれに押し付けている。

「好きな作家は?」彼がわたしに聞いてくる。

「そうだなあ、マッカラーズとか」

「マッカラーズ? ああ」

 知ったかぶり。わたしが彼に対して我慢ならない多くのことのひとつだ。スマートフォンで名前を調べはじめたのがまるわかりで、わたしはソファに丸まる彼から目を上げた。

 とたんに実感させられる。

 金だけは驚くほどに、ある。

 綺麗に磨かれた大理石のシステムキッチン、しみやしわの一つもない、趣味の良い柄の絨毯、深い色をしたアンティークのテーブルの上には、彼がイギリスから取り寄せたばかりの色とりどりのシャツが広がっている――まるで先ほどまでジェイ・ギャツビーがここにいたとでもいうように。

 出会ったころは、こうではなかった。彼は新聞配達と誰もいない夜間の銀行の警備を掛け持ちしながら睡眠を削って小説を書いていた。わたしはスタバで働きながら、空いている時間にはギターを持って北千住駅で流行りの曲を歌いながら金を稼いでいた。そういうありふれた設定の映画が見ていられなくなるくらいには、よくある若者たちの姿そのものだった。

 クリスマスの少し前、彼は師匠と称する人物に出会い、一攫千金のうまい話に乗っかった。夢追い物語もありふれていれば、そのネットワークビジネスへの誘われ方も同じようにありふれていた。夜警で新たに同じシフトになった中年の男から飲み会に誘われた彼は、その週の末に中年男についてパーティーに行き、その前のゼロ次会で中年男から師匠を紹介され、その指示に従ってなけなしの金でスーツ一式などを買い、他の人の勧誘にまわるようになった。わたしはだいぶ後になってからそのことを聞いた。もちろん、最初の段階で相談されていたら、わたしはきっぱりやめさせていたことだろう。

 しかし現実はそうはならず、そして彼は始めて一ヶ月も経たないうちに、大成功した。いまではかつての<師匠>の五倍ではきかない額を稼いでいる。

「いいシャツだねえ」

 わたしは上質なリネンのひとつを取り出して、広げてみた。

「でしょう」マッカラーズの情報から目を上げた彼が嬉しそうに言う。

「どうやったらそう稼げるの」とわたしは言った。「どこから利益が」

 これは微妙に響く聞き方だと自分でも思った。Kもそのエッセンスをかぎとったらしい。

「俺がやっている商売を知っているだろう」

「さわりだけはね」

「だから、あのまんまだよ」

 そう、詐欺まがいの行為で大金を得て暮らしている、ということは、意識にのぼらせるべきではないことなのだ。なんとなく、それには触れないようにして過ごしている。Kだけではない。わたしだってかなりの恩恵を得ているはずなのだが。わたしは言い方を少し変えてみる。しかしどうしたって、責めているような口調になってしまう。

「そんなに素敵なシャツが買えるなら、もう小説なんて書かなくてもいいんじゃない」

「たしかに、それはそうかもしれないな」彼はそう言って立ち上がると、冷蔵庫を開けて次のハイネケンをとりだした。それから、プルタブを開けて大きな一口を飲むと、こちらをまっすぐに見て言う。

「でも、この世の中に生まれてきた以上、なにか後世にものを残したいと考えるのも自然だろう? 俺がものをいくら売ったって、それででかい家や車を買ったって、俺が死んだらそこで一度目の終わり。俺のことを知っている人がいなくなれば二度目の死。そのあとはほんとうに何もなくなってしまう。でも、芸術はそうじゃない」

「誰かの記憶にとどまり続けるかぎり」

「『カラマーゾフの兄弟』みたいな作品を書けるのであれば、家財、生活、すべてを投げうってもいいね」

 嘘つきだ。しかしそれは彼だけの嘘ではない。この豊かな生活に慣れてしまった以上はわたしも同罪だし、わたしは傷口をなぞるような、自傷的なよろこびを感じた。

「いまの豊かな暮らしを捨てても、傑作を書きたいと言うこと? わたし、それじゃ少し寂しいな」

 Kの発言を煽るため、自分の立ち位置を少し俗物に寄せてみる。

「芸術に共鳴するつもりがあるなら、残しておいてあげてもいい」

 二人で笑った。彼は自分のユーモアのセンスに笑ったのだし、わたしは我々の生活の醜さに。先月はじめて会わせた両親からの、彼の評価は上々だ。稼ぎも、人柄も。わたしはおそらく、今年中にこの人と結婚する。