負けることについて
作者: 沼熊
阪急電車の端の座席を確保した長井の左膝で、スマートフォンが二回、短く震えた。「ほんま、佐藤のホームランやばない」「八回の」と、友人の平岡からラインが来ていた。
弱さに憂き目をみるあれこれは、今では懐かしいくらいである。
ここ五年で優勝(日本シリーズ準優勝)、優勝(日本一)、優勝(日本一)、二位(クライマックスステージで日本シリーズ進出、準優勝)、優勝(日本一)。今年も九月の早々にマジックを点灯させ、今日の試合で二位のベイスターズが敗れたためにその数は十一まで減った。誰がみても黄金期であることに間違いない。
しかし、それが――率直にいえば、少し寂しいという気さえする。おれのような阪神ファンのことをなんと呼ぶのだろう、と長井は考えた。世の中には、阪神が強いときにだけ応援するにわか阪神ファンという人種がいる。長井はいわばその逆――まあ、逆とはいわないまでも、それと相容れないなにかだ。平岡からのラインが来たとき、長井の脳の中でそういった微妙な情念たちが接続された。
そして、スポーツバーにサッカーを見に行きたい、という意外な衝動がアウトプットされた。
それは、こんなふうにである。長井はかつて、サッカーファンの友達と一緒に住んでいたことがあった。彼は部活生のように髪を短く刈り込んだ大男で、日本でもトップクラスに有名な銀行に勤めていた。彼のいうところによると、スペインにはふたつの強いチームがあり、そのどちらかを応援している。ときおり(サッカーはシーズンの試合数がすくないので)、長井が深夜につきあいでそれをみていると、そのチームがあまりにも勝つことに驚いた。一シーズンを通して二桁は負けないくらいである。特にその年に調子が良かったと言うわけではなく、毎シーズンこんな感じなのだそうだ。それを聞いた時には、このような世界もあるのだと驚いた。それ以来、長井の体の一部に、圧倒的に敗者であり続けること、そういった世界に対する興味が、昆虫の蛹のように控えめに眠っていたのだ。
家路の途中、三宮駅を少し行った繁華街の地下に、スポーツバーがある。時差の関係で、ヨーロッパ時間ではお昼キックオフのゲームが始まっているはずだ。
スポーツバーの入り口をくぐると中は混み合っていた。関西弁に混じって幾つかの国の言語が聞こえてくる。長井はとりあえず大きなビールの代金を支払い、空いている立ち席についた。大きなテレビには白のチームと緑のチームの試合が映し出されている。前半十五分を過ぎたころで、すでに白のチームが一点を先制している。左上のスコアボードに映し出されたチーム名にはどこか見覚えがある。
長井は一人でゆっくりとビールを飲みながら、その試合を観戦というよりも、観察していた。白のチームがパスを回しつづけ、緑のチームは自陣の後ろのほうで隊列を組んで守っている。白のチームがボールを下げると、緑の隊列は出ていく。白が攻め込むと、緑は引く。シュートには身を投げ出す。危ないシーンはゴールキーパーがストップする。どうしても二点目は割らせない。白がシュートを打つたびに、真っ白な観客席が抜かれ、観客が笑ったり、叫んだり、頭を抱えたりする。緑のサポーターはひとりもいないように見える。緑がボールを奪うと、大きなキックを蹴って長身のフォワード単騎で攻め込もうとする。そのたびに、白の壁が跳ね返す。
まるで勝ち目のない戦いに見えるが、あの長身の緑のフォワードが襲いかかる白を一人、躱しただけで、長井は気持ちが盛り上がるのを感じた。
おれが見たいスポーツの恍惚はこういうところにある、と思った。
長井が二杯目のビールを買って戻ってくると、隣のテーブルにいた三人組の外国人のおっさんたちが、長井の方を見ながら何かひそひそと話しているのが見えた。こういう悪意のある視線に晒されるのは久しぶりだ。長井は小学生の頃の遠足を思い出した。おれのことを仲間外しにした皆がおれに向けた視線だ。子供の気まぐれはときどき、だれかを残酷に輪から除外する。すぐになにごともなかったかのように輪に戻る子もいれば、なかなかずっと口を聞いてもらえないままの子もいた。あの遠足の日、それはたまたま長井だった。そして当たり前のように、長井はその日が終わるまでずっと、主役のように皆の視線を集めながらも、だれからも話しかけてもらえなかった。
長井は普段飲まない酒のせいで、少し気が大きくなっているのを感じていた。こちらを見てくるおっさんたちに向かって長井はまっすぐその目を見返し、近づいていった。
「どうしたんですか」
「◎△$♪×¥●&%#!」端にいた、背の高い禿げた男が言った。残りの二人はそれを聞いて、げらげら笑った。「◎△$♪×¥●&%#」
同じ音の羅列が二回繰り返されたので、長井は、これは侮辱のことばであると決めつけた。「なんや、お前ら」長井も大きな声で言った。
「◎△$♪×¥●&%#」
真ん中にいた小さい宣教師みたいなやつが、今度は笑わずに言った。我々は徐々に周囲の注目を引きはじめていた。少し遠くのテーブルで女性と飲んでいた金髪の若い大柄な男性がやってきて、おれと三人組の間に入り込み、向こうがわに向かって諭すように何かを言った。
「どっかいけやあ!」おれはいらいらして言った。実際のところ、その苛立ちの一部は仲裁に入った金髪男に向けられていた。
「ええから」人の良さそうな初老の男性に、おれは肩を軽く掴まれて優しく引っ張られた。「落ち着きや」子供をあやすような声だった。おれはそれを無視して、早足で地上への階段を登った。最後にちらりと見えたテレビ画面で、いつの間にかスコアが二対〇になっていた。ずっと耐えていた緑色のチームがついに失点を喫したらしい。
長井は地上に出ると、そのまま駅に向かって早足で歩いた。
あいつら三人組は、白いチームの応援をしにスポーツバーに来ていたに違いないと思った。ほんとうにしょうもない奴らだった。おそらく、仲裁に入ったあの大きな男もそうなんだろう。
それから、長井は、人がどのチームの贔屓になるのかということには、神秘的ななにかが関係しているのではなかろうか、と想像した。どこで生まれた、とか、親がどうだったか、……。そういったあれこれは、おそらくきっかけにはなっても、そのチームが「心のチーム」になるかどうかにはまた、別の要因があるはずだ。他の条件を全部一緒にすれば、長井はマドリードに生まれていたとしても、あの白いチームを応援していなかったはずである。
神戸の繁華街に活気がみなぎり、多くの客引きが道端に出ていた。長井は人影に隠れたり歩く方向を工夫して客引きから逃れた。客引きたちも、すれ違う酔っ払った人間たちも、人間の種別を共通に振り分ける原理を長井は探した。こいつは白なのか、緑なのか。夜の風が頬に当たり、しかし、なかなか酔いは冷めず、長井は他人に聞こえないくらいの鼻歌を歌いながら早足で歩き続けた。そうして、だれかがバックラインからおれに向かって長いボールを蹴ってくる想像をした。おれは堂々と、緑のシャツを着ている。そして、そのチームのフォワードになって、左、右とステップを踏んで、ジャンプし、高く上がったボールをヘディングで相手ゴールキーパーの足元に叩きつけ、満員の観客の前で――真っ白な壁の前で、大きなガッツポーズをする!