無限論の帰路
作者: 沼熊
俺はどちらかというと〈無限〉とはトリックのようなものだと思うが、親友のユキチにとっては違うらしい。彼は楽しいときには永遠に楽しいのだというような感じで笑い、悲しいときにもまた然りでいつまでも泣いている。そうやって次の日また通学路で会ったときには、こっちの心配をよそに昨日のことなんてなかったかのような顔でけろっとしているのだから、そんなのないよなって思う。
ある日数学の授業で、先生が無限をその手で取り扱ったのを目撃した。大それたことだ。俺たちの数学の先生は五十歳を超えていてどうやら独身だし、授業中ぽりぽりと白髪頭を掻いては大きなフケが背広の方にひらひらと落ちて汚い。そんな先生が一瞬で無限を取り扱って、世界をそれまでのものと一変させてしまった。先生がすごい遅さで板書した上段の式には、「なんとか、たすなんとか、たすなんとか……、てんてんてん」で最後のほうは書ききれなくなっている。下段にはそれぞれ両辺を二分の一した数式、これも最後はてんてんてん、だ。それから、先生は上段から下段を引き去った。そしたら、両辺が魔法のようにすっきりして、で、Sとかなんとか、ある特定の値が定まっておしまい。
俺は斜め前の方にいる優等生のユウキをみていた、なんか神妙な顔をしていたけど、先生が今やったことの重大性にこれっぽちも気がついちゃいない、あいつはそういうやつなんだ。しかし、俺はこれはペテンだとわかっている。無限を一瞬にして生み出したり、消し去ったりできるのであればそれは世界のすべてを超えた能力であり、あの白髪頭にできるようなことではないことは確かだ。よく見るとあのおじいさん、腰も曲がっている。
というわけで、俺は休み時間にさっきのことについてユキチに聞いてみた。
「よくわからんけど、頭いいなと思った」と彼は言った。
「ペテンだとは思わなかった?」
「先生なんだぜ」
体育館の裏側、部室と目隠し用に植えられた樅の木の間でユキチは煙草を吸っていた。こいつはほんとうに変なやつだ。不良でもないのに休み時間には俺を連れてここに来る。そして煙草を半分まで吸う。味が好きなのだという。常に制服からは煙草の匂いがしていて、でも先生たちもこんなやつが煙草を吸うなんて想像もしていないから、父親が度を超えたヘビースモーカーなのだ、ということで奇跡的に信用されている。
「しかし、あんなに簡単に無限を出してきたり、消し去ったり。足したり引いたり、できるもんかね」
「おい、シュンスケ、無限なんてものがこの世の中にほんとうにあって、俺たちはそれを、チーズをちょっとずつ齧っていくみたいに見出していくだけだってそう思っているの?」
「よくわからないな」と俺は言った。
「たとえばさ」とユキチが、羽毛のように濃い煙を吐き出しながらいった。いっさい肺に入っていない。「円周率は無限に続く。その数字ってもうこの世の中にあると思う? 何百万桁も計算している奴らは、それに少しずつ近づいているのだと」
「まあ、そう思う」
「わかってないなあ」ユキチが学校の敷地境界を示す柵の外に吸い殻を投げ捨てながら言った。「無限はね、俺たちの可能性なの。俺たちが作っているのに」
示唆的だ、というくらいには思った。しかし夜になるとそのことが頭から離れなくなった。あのくっさいヤニの臭いと、ユキチが〈可能性〉と言ったことが何度も頭の中で再生された。ユキチは、無限は可能性なのだと言った。じゃあ、あの白髪頭教師は、我々のあずかり知らないところの叡智をいたずらにこねくり回したわけではなく、あくまでも可能性のひとつとしての操作をした、ということか……。
「いや、でもおかしい」次の日、俺はユキチに言った。
「何の話だ」
「昨日しゃべってた、無限だよ」
「ああ」ユキチはめんどくさそうな顔をした。無限の話なのに、興味が丸一日も持続しないとは。
「無限が実物じゃなくて可能性だとしたら、なんでそいつら同士の引き算ができるんだ。可能性なら、途中でどう変わったっておかしくないだろうに」
「それは問いのたて方がおかしい」
「どこが……」
そこでチャイムが鳴って、国語の授業が始まった。礼のあと、ユキチが「適当にそれっぽく言ったんだ」とぼそっと言った。
俺は授業中窓の外を眺めながら、無限に続く山脈を引き算して消失させていく想像をしていた。あの山には、同じ形のマイナスを当てる、それで消える。あの山にも、あの山にも。しかし、見えないところの形は想像に頼るしかない。「こうなっているだろう」を当てて、消していくのだ、無限に。
放課後、めずらしく卓球部が休みのユキチと並んで帰った。とびきり校舎裏でダラダラしてから帰ってもまだ斜めに差し込む陽が明るい。もうすぐ夏休みに入ろうとしていた。
「春夏秋冬、どれかの季節が無限に続くとしたら、どれがいい」話すことがなくなって、ユキチがつまらないことを聞いてきた。
「春か秋」
「理由は?」
「気温に決まってる」
「面白くないなあ」ユキチはニヤニヤ笑いながら言った。
「質問が面白くないからな」俺はやり返した。
考えごとをしているときにはすべてのものごとがそれに関連づく。たとえば、通学路の脇に流れているこの川にだって、永遠なるものを見ることは可能だ――最近習った、「水の流れは絶えないが、それはずっと元の水ではない」と言ったのは、誰だったか? だからといって、一瞬ごとに川の名前が変化することはない、いつも同じ川なのだ。
「俺は夏かな」ユキチが言った。
夏、真っ盛りのこのときに、夏を選ぶなんて正気か。普通は、夏は冬のすずしさに、冬は夏の暖かさに憧れて、そのつらさも忘れ美化して見えるものじゃないのか。そう思っていると、ユキチがそのあとを続けた。
「いや、なんとなく、永遠に続くのであれば夏だって気がする」
家に帰る時間を知らせるチャイムが流れてきて、オレンジ色に染められた空気がびりびりと震えた。毎日聞いているのに、何十年も押入れにしまい込んでいたような音がする。それを聴きながら、俺は大人になったらたぶん、外国で暮らすんだろうな、と考えていた。