大過去
作者: 沼熊
毎年毎年、外がこうも暑いと、過去これに匹敵するような夏はあっただろうかと、つい考えてしまうようになった。そういうときに決まって思い出すのは、二〇二〇年――単純な気温に加え、全世界に広がった例の感染症や政治が絡んだ大イベントのせいで、いま思い出してみても皆どうかしていた夏だ。俺は、通勤に便利だからというだけの理由で契約した都心の安アパート暮らしが早々に嫌になり、同じタイミングで東京に出てきた友達の家に入り浸っていた。そこは正確には神奈川県で、最寄り駅といったら、まだ故郷の街のほうがましなのではないかと思えるほどの山奥にあった。
――ここにした理由?特にない。物件サイトの安いほうから電話をかけていって、最初にどうにかなったのがここだったんだ……。
広い窓を開けて部屋いっぱいに風と無色の光を取り込みながら、そいつは言った。レースのカーテンが揺れ、少し遅れて壁にかかった影も揺れた。
――とはいえ、こんなに辺鄙なところにすることもなかったじゃないか。
――お前だって都心にアパートを借りて早々に嫌になったんだろう。都会に住むのが向く人間と、向かない人間がいるのだ。
俺は返事をせずに窓の外を見た。その牧歌的な風景にあるなにかが、あの頃の俺の心をとらえたのは確かだ。朝、窓の向こうに広がる畑を照らす光、坂や階段が奇抜なアパートのベランダの横を抜けて曲がりくねった秘密の道、深夜に営業を止めるコンビニ、地元の若者(俺は首都圏にもヤンキーがいるのだとそのときに知った)――そういう物たちのことを今でも時々思い出す。結局そいつはその年の秋に彼女を作り引っ越していってしまったし、そのタイミングで俺たちはなんとなく疎遠になって、会うことも少なくなってしまった。だからそれらは、異常な高温をたたきだしたあの夏と、俺たちが着ていた変な柄の半袖シャツとともに思い出される記憶だ。
一日だけ、そいつが出張に行くといって、俺がひとりで部屋の番をしたことがあった。当時は誰もが自宅から勤務していた。俺は昼休みまでを適当にやり過ごし、部屋の鍵を閉めてコンビニへと向かった。
部屋を出た瞬間に、蒸されるような熱気に包まれた。田舎でこの調子なら、都心はさぞかしもっと酷いのだろうと、俺はいずれ来たる本格的な社会人生活を憂いた。なんだかいまは、まだモラトリアムの続きをしているような気分だった。
ところどころに錆の目立つ共用階段を降り、裏道に入ると、斜面に沿うようにして建てられた住宅街を見下ろせる。家と家のすきまをすり抜けていくように下へ降りていくのが駅前方向への近道だ。それにしても、昼間この街から音がしたためしがなかった。道を歩けば老人とすれ違うし、店に入れば店員がいる。人間の活動があることは間違いない。しかし、音がない。なみいる住宅街の中から生活音が何一つ聞こえてこないし、車さえも通らない。俺はそれが気味悪くて、黙って歩く知らないおばあちゃんに話しかけそうになる。
なぜこの街はこれほどまでに静かなのでしょう?
猛暑のせいか。それともほとんどの人間は、昼間は街の外に出ていってしまっているのだろうか。
コンビニまで辿り着けば、冷房と音を浴びることができることに、俺は少し安心する。外国人の店員が大きな声で挨拶する。冷蔵庫のブーンという音がする。店内のモニターに、新商品の紹介映像が流れる。その空間には活動があった。俺はおにぎりを二個と冷たいお茶とチキンを買う。店員がもう一度、にこやかに挨拶をする。それを聞きながら俺は急いで店を出た。昼休みが終わるまでにこれらを片付けなければならない。
帰りは上り坂だ。暑さは先ほどよりも過酷に感じられる。大通りから脇の小道に入り、それから家と家の隙間を縫うように上へ登っていく道へ向かう。
そこで、ふと立ち止まった。家の方向に上がっていく抜け道はどれだったか?もと来た道を見失ってしまった――いや、その迷いはふだん道に迷う時とは異なっていた。明らかに、さきほど通ってきたはずの道がないのである。抜け道があったはずのところは、雰囲気の違うコンクリートの階段になっていて、施錠されたピンクのゲートがついている。まるで俺がコンビニに行っている間に、誰かが急いで道ごと作り変えたとでもいうように。俺は気味が悪くなり、遠回りをすることにした。コンビニの方まで一旦戻り、大通りから別のルートへ。しかし、コンビニのある大通りに戻る小道にもまた、ピンクのゲートが取り付けてあった。
近くを一人の女の子が通りかかる――白いTシャツにジャージ、おそらく部活のものであろう大きなリュックを背負っている。目が合った。しかしかけるべき声が見つからなくて一瞬、固まってしまった。女の子は不審そうな目つきになり、やや早足になり歩き去っていく。ついていけば、どこかには行けるのだろう。俺は後をつけるべきかどうか迷った。さっき目が合ってさえいなければ、と思った。
ふと、地面に目を落とすと、少し離れた女の子の影が夕日に照らされているかのように長く伸びている。俺はそれを自分の濃くて短い影と見比べた。よく見れば彼女についているのは不思議な影だった。アスファルトはぎらぎらと真っ白な光に照り付けられているのに、影の部分だけがオレンジジュースを溶かしたみたいに暖色で、少し色が薄い。
暑さに耐えかねるといったようすで彼女がとたん屋根の陰に入ると、彼女の影は建物の影に吸い込まれるように消えた。それから彼女も消えた。
俺は彼女の後を追って、とたん屋根のついたみすぼらしい家の日陰に入った。俺の濃くて短い影も、同様に建物の影に取り込まれた。
すると、なくなっていた音が突如として一斉に立ち現れてきた。この街の光の部分から吸い込まれた音が滞留する池の底に飛び込んだかのように、俺の耳にはごぼごぼと大きな音が聞こえた――しばらくして耳が慣れると、鳴っていた音は会話の形をとるようになった。
――案外面白い物ではなかったよ。しかし葉脈以外の部分が朽ちた木の葉の化石みたいなものがいっぱい転がっていた。
――苦労していちばん下まで行けるようになったところで、それじゃあ、ね……。
――最近越してきたKを覚えているか。彼は帰って来れなくなったらしい……。
俺はみずからがこのピンクのゲートに囲まれた袋小路から永遠に出られなくなったかのように錯覚した。それから、<集合意識>のなかに、自然と彼女の声を探した。いくつもの、周波数がでたらめなラジオがたくさん並んでいるような音の洪水のなか、俺はひとつひとつのつまみを合わせていくように、少しずつ意識を集中させていった。
――好きなところへと行きなさい。時間はまっすぐにだけ、進むものではないのだから……。
過去にはあって、もうなくなってしまった夕暮れの時間だった。たとえよそよそしい街に居たって光だけは優しいものだ。「夕やけこやけ」のしわがれたサイレンが、どこか遠くに見渡せる上り坂の、上の方で鳴りはじめて、そこから滑り降りるように色がついて、俺が今いる足元まで届いている。太陽は赤く大きい――住宅のひとつひとつに、橙や紫の色をつけている。それから、電柱をつたってたくさんの電線が張り巡らされている。鳥が止まっていて、線と鳥の影はいっさいの光を吸収しているかのように黒々としている。まるで世界が今崩壊してもすぐに逃げられるように準備しているといった具合に、鳥たちは落ち着かない様子で並んでいる。
俺は上を見るのをやめ、足元を見ながら歩いた。太陽の方向に歩いているので、みずからの影は見えない。照らされた地面に白くペイントされたサイドラインをなぞるように進んだ。少しだけ上り坂で後ろ側に重力を感じながら歩いた。それはまるで影に重さがあるとでもいうようである。
友達の家に戻り、職場のチャットツールを開いてみると、俺が午後いっぱいをどこかへ投げ棄ててきたことに気づいている人間など誰もいなかった。誰も管理なんてしてはいないのだ。それから数年が経ち、俺の時間も伸び縮みすることをやめ、直線的にしか動かないようになり、その直線的な時間の上で、今度は俺が新入社員の勤怠を管理しているふりをし、それからあの風景は、過去のレンズを通して見た過去になってしまった。つまりはあまりにも遠い。俺ははるか昔、英文法の参考書に載っていた時制の図を思い出してそう考える。かろうじて思い出せたり、もうとっくに思い出せなくなってしまっていたりする<大過去>のことを、俺は時々考える。