王子

作者: 沼熊

 その片側二車線の産業道路に歩道はなく、王子は車に接触しそうなぎりぎりのところをすごい速さで進んでいた。王子がアスファルトを一度キックするごとに、彼の体は数メートルも浮き上がり、車を数台飛び越えるほど前に進んだ。ときどき、横からの風に煽られて着地の位置が少し内寄りになり、驚いた運転手がクラクションを鳴らした。道路沿いには駐車場の広い様々な店――ホームセンター、紳士服店、ファミリーレストランなどが並んでいたが、合間にはまだまだ多くの田畑も残っていた。王子はすごい速さで跳びながらも、左右をながめ、どこか酒が飲めそうな店はないかと探した。なさそうだ。もうすぐ日が暮れる。

「気をつけな!」また強い風が吹いたときに、ロードバイクで並走していたテジマが注意した。王子は空中でバランスを崩したが、なんとか耐え、白線の上をまた蹴った。

 テジマは王子の唯一の友達であった。王子の両親よりもずっと彼のことを気にかけていた。

 王子というのは、もちろんあだ名である。彼はきらびやかな王族に生まれたわけではなく、山陰地方のつつましい一軒家に、教員の家庭に生まれた。少年が生まれた夜、彼の父親は村の皆がつどう大規模な賭け麻雀で逮捕され、それ以後家に帰ってくることはなかった。

 少年は母と、母方の祖父母によって育てられた。祖父母は少年の家から車で二十分ほどのところに住んでいた。昔ながらの地主で、人をたくさん雇い入れて高級フルーツを栽培しており、裕福だった。少年は、幼少期を家族や、親切な農園の使用人たちに囲まれながら、フルーツをたくさん食べて幸せに過ごした。少年は(家族以外からは)愛情を込めて王子とよばれはじめた。

 そのうちに小学校に上がり、毎年健康診断をするなかで、王子の母親は奇妙なことに気づいた。王子の身長は同年代の平均をやや上回るペースで推移していたが、体重が減少し続けていたのである。

 小学校五年生のころ、王子の身長は百五十一センチだった(これはクラスで三番目に高かった)。ところが体重は、十八キロだった(これはクラスの平均値のおよそ半分くらいだった)。

 体重以外のことについていうと、王子は健康そのものだった。年に一度、クラスで流行していたインフルエンザや、その他の流行病にかかるかどうかといった具合で、それ以外はいっさい病気をしなかった。また、見た目だって痩せぎすに見えたかというとそうではなく、その年頃の身長の高い子供が往々にしてそうであるように、ややふっくらとしてさえいた。彼の母親は数値としての体重が軽すぎることだけを心配すればよかった。しかし、誰にどう相談したらいいものかわからず、時間だけがすぎた。

 六年生のときに運動会で組体操があった。そのときに、二人わざを練習するペアが定められ、王子(クラスで二番目に身長が高かった)の相手がテジマ(一番高かった)に決まった。テジマはいろんな子どもに乱暴をはたらいており、皆から恐れられていたが、王子には不思議とちょっかいをかけることはなかった。王子はそのころにはいまのように、髪がさらさらで長く、前髪は少し目にかかっており、丸い眼鏡をかけ、休み時間にはクラスの端っこで児童書を読むような子どもだった。もしかしたら、単純に体が大きいということだけで一目置かれていたのかもしれなかった。

 組体操の演目には、さぼてん、という二人わざがあって、片方がもう片方を肩車した後、土台側は膝を曲げて自分の太ももの上に相手を乗せる。初めての練習でテジマが王子を肩車して、そのとき初めてテジマは彼の軽さを知った。

 言ってみればその秘密を知った。王子にはその当時から成熟した恥の感情があり、子供がよくやるように自分のちょっと特別な身体的特徴を吹聴したりすることはなかったため、一緒に体操をする機会でもなければ、王子がそれほどまでに軽いということを知るものはだれもいなかったのだ。

「おまえ軽いな」テジマは言った。

 王子は黙っていた。

 それから、王子とテジマの奇妙な友情が始まった。テジマは王子が体格とは不釣り合いに、というか、小学六年生としても異常なほど軽いということを誰にも言わなかった。テジマは王子にカーブの投げ方を教え、王子はテジマに割合の計算を教えた。テジマは王子の家に遊びにきて、広い果樹園でとれたフルーツを二人並んで食べた。そんなふうにして、ふたりは小学校を卒業し、同じ中学に入り、三回中二回同じクラスになった。

 中学を卒業すると、ふたりは離れ離れになった。テジマは工業高校に入学し、就職して自転車の整備工になった。王子は普通科高校を卒業し、地方の国立大学に入った。

 高校を卒業するくらいになると、王子の体重は一キロを下回りはじめるようになった。教員たちにはその秘密が共有されており、体育の授業はあぶないので見学となった。高校ともなれば、さまざまな理由で体育をしない学生もいる。だから王子の見学は目立たず、その異常な理由も露呈しなかった。王子は両足の靴下の内側に小さくて重たいおもりを入れて日常生活を過ごした。そうしないと、すぐに風に煽られてまともに立てないのだ。王子はバスを使って慎重に通学した。できるだけ無防備に屋外にいる状況は避けた。

 どの医者にかかっても、王子の低体重の原因ははっきりしなかった。ただ皆それを珍しい研究の対象にし、いろいろな仮説をもって学会で発表するだけで、誰も王子の不便を思い、生活をよくしようとする者などいなかった。それは惑星の軌道が傾いているのと同じようなもので、観察の対象であっても改善の対象ではなかった。皆口を揃えて、安全の為にできるだけ家の外には出さないように、といった。

 テジマだけが、王子の異常な軽さを軽々しく扱った。

 王子が大学を卒業して、実家で出勤不要の仕事に従事しはじめると、テジマは月に数回王子の家に遊びにきた。テジマだけが唯一、王子を無理矢理にでも外に連れ出そうとした。ずっと家の中にいても面白くないだろうから、というのがその理由だった。そんなことを考えているのは王子の周りではテジマひとりだけだった。

「おまえは酒をのんだことがないだろう」とある日、テジマが言った。

 もちろん、ない、と王子は答えた。

「どれだけ飲めるかは、体質と体重による」とテジマは続けた。「体質はおいといて、体重の点でいえば、おまえはとんでもない才能に恵まれている。ひとくち飲めば空を飛べるだろう。おれはそれを見てみたい、おもしろそうだから」

 それで、いま、この街のどこかにある飲み屋をめざし、王子は産業道路の端を猛スピードで跳び続けている。それはまるで、滞空時間のとんでもなく長い走り幅跳びをやり続けているかのように見える。テジマはそれをロードバイクで追いかける。一度王子の身体が地面を蹴るごとに、危なっかしくふわふわと空へ浮かんでいく感じ……まだ飲み屋にありつけないどころか、それらしきものだって一軒もみえないが、王子は空を飛んでいた。身体が、自分のものでないような……まるで何かより大きなものに操られているような感じがした。それは王子がいままで感じたことのない、さわやかに開けた恐怖だった。王子は、恐怖はずっと自分の内側にあるものだと思っていた。こんなにも色鮮やかに、外向きに、明るい恐怖があるとは。西に傾きつつある太陽が王子とテジマの影をつくった。王子の影はスキップの一歩ごとに道の近くに吸い寄せられ、また離れた。

 王子が空中でバランスを崩し、コースをはずれて、道路脇の何も作っていない畑、わずかに原型をとどめた畝の上に墜落した。乾いた土ぼこりが舞った。王子は鈍い痛みを感じたが、怪我はなさそうだ。テジマが後ろからやってきて、上から覗き込んだ。

 王子はげらげら笑いながら土の上でひっくり返り、色が薄くなってきた青空の真ん中にテジマの顔を見上げた。

 見上げて、「飛ぶのは、なんだかずっと昔から苦手だったって気がするんだよ」と言った。