消音都市1

作者: 沼熊

 藤蒔市をおとずれた者ならだれでも、その都市での時間の進みかたは他と根本的に違うと感じることでしょう。じっさい、あの都市には過ぎ去った時間とこれからきたるべき時間が混在しております——まるですべての瞬間が記録された分厚いアルバムを逆さにして床にばらまいたように、その平面の上は完結しているのです。それは、たとえば東京の渋谷駅前がいつまで経っても変化しているのとは大違いです。藤蒔市には始まりも終わりもありません。もっと厳密にいいましょう。原理的には、藤蒔市には時間が流れていないはずなのです。しかし旅人には、違和感こそあれ、その都市に入った瞬間に時間が停止したという感覚に陥ることはございません。それは、藤蒔市のさまざまな場所に、記憶や因果関係の痕跡が巧妙に隠されているからです。青い屋根まで伸びたつる植物の足元には、プラスチック製の支柱がついた植木鉢があります。そこにはどの瞬間も一様に存在しています。けれど、その全体を見渡せば、子供が植えたつるが長い時を経て伸び、繁殖し、青い屋根に到達したのだと気づくでしょう。

 そう、藤蒔市には時がなく、記憶がなく、因果がなく、その代わりに物の配置があります。すべての建物、すべての道路、すべての植物、そしてすべての人間が、時の流れを錯覚させるよう巧妙に配置されております。

 中央駅と市役所通りをつなぐアーケード街にはもはや人は歩いておらず、肉屋や金物屋の錆びかかった看板の合間に今でも元気なのはけたたましい光を散らす遊技場くらいのものです。しかし、その上にかかった七夕のリボンはどうでしょう?クリスマス会や地元のラグビーチームの試合の案内は?それらは季節がめぐるごとに取り替えられているようでいて、その実、ずっとそこにあったものなのです。かつて道幅いっぱいに人が溢れかえったということも、今では灰色の服を着た二、三の人間が遊技場に吸い込まれ、吐き出されていくということも、つねに、すでに、そこにあったものなのです。

 この都市ならではの活発な商業に出会うことは、ほかの地方都市同様に少し難しいでしょうが、旅人は郊外のショッピングモールまで歩けばおおよそ必要なものを手に入れることができるでしょう。藤蒔市には、だいたいすべてのものがございます。でも、そこを後にし、どこか似たような街の、似たようにさびれた商店街に足を踏み入れた旅人は、そこでふと藤蒔市のことを思い出し、そしてかの地の異様な静けさに、そこで初めて気がつくのかもしれません——音楽こそは、藤蒔市の住民が生まれてから死ぬまで知りえない、ただひとつのものなのでございます。