環状線ランニングアラウンド

 作者: 沼熊

 もうこんなところ辞めてやる、と、新卒から三年間働いた地方銀行を退職したとき、わたしの頭にぼんやりと浮かんでいたのは、観光地で働く、ということだった。どこか、現実離れしているところであればどこでもよかった——離島、山頂、滝の麓。実際はそこにもまた別の種類の現実があり、それはそれでつらいものなのだろうとはわかっていたんだけれど、逃避というのはそういうものだ。

 ゴールデンウィークが明けて少し経った平日、田舎の駅からロープウェイを登った先にあるハーブ園で、日本で他にいくところがなくなった数組の外国人観光客以外には誰もおらず、わたしはひっそりと飲み物売りのカウンターで待機している。そのものすごく長い時間、遠くの港町を見ながら、あのとき都会や銀行員生活の何がいやだったのだろうかと改めて考えてみる。まわりがいやだったのではなく、わたしの中身が変わっていくのがいやだったのだ。もともとせっかちなわたしが、どんどん高火力のエンジンを積むようになった、というのかな。周りの子たちは、そうやって生活のスピードを上げていけば、いつかは幸福に辿り着くものだと信じていた。でもわたしにはそれが、環状線の中でただ、ぐるぐるとスピードを上げているようにしかみえなかった。それに馴染んで、そうなりつつある自分が、あるときどうしようもなく、怖くなった。

 そうして、このハーブ園にアルバイトとして逃げ込んできた。まわりのみんなは銀行員時代の感覚からするとびっくりするくらい動きがとろく、わたしは二週間もたてばここで一番仕事ができる人間になった。おばちゃんたちはいつでもほめてくれたし、若い子もまあ、何人かは面白くなさそうな顔をしていたのはわかるんだけど、基本的にはみんな仲良くしてくれた。数ヶ月後には正社員になって、そのあとすぐにマネージャーになった。でも、それはそれで……。

「ここは何でこんなに暑いの」

 ひとめみただけで北米からの旅行者とわかる、大柄な女性が英語で話しかけてきた。白いTシャツ、腰に巻いている蛍光色のアウトドアジャケット、「アメリカ!」と叫んでいるような運動靴。わたしは面倒なので、意味は完璧にわかったけれどもわからないふりをして、曖昧に微笑んだ。

 そう、そのことを忘れていた。このハーブ園は去年の八月から季節がとまっている。

 それに最初に気がついたのもわたしだった。最近は異常気象だから、九月になっても十月のはじめごろも暑いというのはわかる。でも、十月の下旬、麓の街がかなり寒くなったある朝にロープウェイでここに登ってきたあと、わたしは服を二枚脱ぐ羽目になって、それでおかしいなと思ったのだ。周りの若い子にそのことを伝えても「え、そうですか?」と目を丸くするばかりで、役員のおじさんも「最近は真冬までずっと暑いからね」と言うだけで、結局だれもこの事態に気が付かなかった。何という鈍さ。とにかく、冬にはこのハーブ園の客はほぼゼロになるし、その時期に来ているような物好きにだって知識があるような人は一人もいないから、ハーブのなんらかの温室効果だろうって平気で半袖になって歩いている。そんな具合でおどろくべきことに、テレビの取材もSNSの拡散もなく、このハーブ園は真夏の気温のままひと冬を越してしまった。

 いま、やっと暦がまたこのハーブ園に追いつきつつある。

 この小さな社会の構造だって銀行員時代とほとんど一緒だとうすうす気がついているとはいえ、やはり浮世離れしているというか、すくなくとも自然環境でいうと異常な状況なのだ。その点はわたしにとってはありがたい。都会はぐるぐると周るけれど、ここは、ひたすら静止しているような感覚——とにかく周りの皆はほとんど静止して、わたしだけ場違いな速さで動いているような。

 ほんとうは、どこかへまっすぐ、一方向だけに動いていけるような生き方があれば、それが理想なんだけれど。


「あなた、英語わからないの?」

 目の前の女性がまだ話しかけてきている。ふつう、こっちが曖昧に微笑んだらあきらめてどこかに行ってしまうもんじゃないのか。

「少しだけ」

 彼女の圧に押されて、わたしは答えた。

「よかった。翻訳アプリは必要なさそうね。ジンジャーエールある?」

 わたしはOK、というような弱々しいしぐさをして、店の裏側に入った。いい人なんだろうけれど、威圧感があった。縦も横もわたしの二倍ずつくらいあった。これだけ体格差があると、むこうがどれだけ礼儀正しくても、ちょっと怖い。不公平だという気分になる。彼女の礼儀正しさは、横暴にもできるという選択肢が与えられた上での、彼女の選択なのだ。いっぽうで体の小さなわたしには、そもそもその選択肢は奪われている。それは本能でわかっている。死なないためには、おとなしくしておく必要があるのだ。さらに悪いことに、彼女よりも身体の大きな人間たちだって、この世界にはたくさんいる。

 ジンジャーエールをだすと、彼女はにっこりと微笑んで礼を言った。わたしは伏目がちに目を逸らした。

「ところで、アメリカには行ったことある?」彼女がフレンドリーに、ゆっくりとした英語でたずねてきた。

「いいえ」

「まあ、ここのほうが、ずーっといいところよ」彼女はそういうと、もう一度空や山を見渡した。

「アメリカからきたんですか」

「そう。アメリカの、北の方からね。ビッグ・マウンテンズ……スノウ……」

 彼女は英語が不得手なわたしにもわかりやすいようにと、簡単な単語をいくつか並べて彼女の出身地を描写した。アメリカかあ。海外に行くのって、どんな気分なんだろう。わたしは生まれてから国を出たことがなかった。もし、わたしが明治や大正の人間であれば、海外に出るということに、もっと夢を見られたかもしれない。加速して回り続けるのではなく、一方通行の出口として、あめりかやふらんすを見たかもしれない。でも、わたしたちはもう、海外で暮らすということも、だいたいどんなもんかわかっちゃっているし。高校の友達のうちひとりかふたりは海外で生活していて、そのようすはわたしたちにもときどき配信されていて。それはもちろん向こうなりの苦労もあって、でも、正直そんなもんか、と思ってしまうな。

「ありがとう。とっても美味しかった」

「オリジナルなんです。ここのハーブも少し入っていて」わたしはちょっと誇らしそうに答えた。彼女は大げさに目を丸くして、「ここはほんとうに、いいところね」と言った。


 そこから約三時間にわたって、誰ひとりこなかった。わたしはマネージャーといっても、店舗や客対応の担当だから、このハーブ園の経営がどうなっているのか走る由もないが、今日の客入りの少なさはさすがにまずいだろうと思えるほどだ。わたしは洗ったグラスを、海外のバーテンダーがやるように柔らかい布でほこりひとつないところまで磨き上げた。すべてのグラスに対してそれをやったあと、もう一通り同じことをやった。それでも客は来なかった。わたしはこっそりカウンターを抜け出して、客用のリクライニングソファに寝そべって山と空を見た。やたらとハーブを植えているせいなのか、この辺りには鳴く虫が一匹も寄り付かず、だからこの場所はものすごく静かだった。この静けさ、久しぶりに思い出した。上空は風が強いのか、雲が滑っていくようすがわかった。それを見ながら、地上より雲のスピードの方が早いのなんて世界でここくらいだとおかしくなった。

 園内がまるごと巨大な寒天のように静止していたので、それを乱すものの気配にはすぐに気がついた。音も姿もないはずなのに、下の方からだれかが登ってくるのがわかったのだ。わたしは急いで客席を離れ、なにごともなかったかのようにカウンターの後ろに戻った。

 やってきたのは、小柄な中年の男性だった。この暑いのに、白シャツに黒いスーツの上下を身につけている。ネクタイはしていない。彼はタオルハンカチを手に持って、顔の汗をぬぐいながら、きょろきょろと周りを見渡しており、カウンターの中のわたしに気がつくと安心したように微笑んでこちらに向かってきた。

「いらっしゃいませ」

「ああ、どうも」男性はタオルハンカチで額をかきあげるようにふきとった。薄くなった前髪が無抵抗にその動きに従うのが見えた。それから、あっ、そうだ……とかなんとかぶつぶつ独り言を言いながら、スーツのポケットから黄色の腕章を取り出して左腕にとりつけた。腕章には、隣県の新聞社の名前とロゴマークがついていた。

 男性はわたしにあいさつし、いやはや、暑いですねえ、と言った。それから、腕章に書いてある新聞社につづけて、自分の名前を名乗った。

「ちょっとした取材なんですけれども、よろしいですかね。ああ、顔も名前も載りません。匿名で『従業員の方』とだけ記載させてもらいましょうかね」

「そういうことでしたら、広報担当にお取次いたしましょうか」

「いえいえ。その心配は無用です。御社の広報のかたには事前にお電話で許可いただいていますのでね」男はハーブ園の広報担当責任者の名前を出した。「わたくしどもとしては常連客の方か、店舗などの従業員の方にちょっとインタビューできればそれでよくてね。そう思ったんですが、人っこひとり見つからなくて——いや、外国人の旅行客の方とかはね、いたんだけれども、それではちょっと難しくてねえ——それでここまであがってきたというわけです、いやはや、暑い。よかったよかった」

 男は白シャツの胸のところをぱたぱたさせた。

「そうですよね、今日はちょっとお客様が少なくて」わたしは戸惑いながらも、愛想よく言った。

「いやはや」と男は言った。「そのご様子ですと、ここでのご経験は長いのかな。ここで働かれてどのくらいになりますかな」

「そうですねえ、まる一年と二ヶ月くらいです」

「おお」男は嬉しそうに言った。「ではちょっとお伺いしたいのですが、去年の秋から冬にかけて、市の気温にかかわらずこのハーブ園の中だけ異常な暑さを記録していたとのうわさが」

 男は事務的な調子を崩さなかったが、興奮して少し声が高くなっているのがわかった。

「なにか思い当たるようなことはございますかね」

 わたしは、まるで取調べを受けているみたいにどきどきしてしまった。

「妙なことですよねえ」男は促すように言った。

 どうだろう。

 ここでは、普通のことなんですよ。

「いえ」わたしは自分でも驚くほど、きっぱりと言った。「わたしにはちょっと覚えがないですね。もしかしたらそう感じられた方はいたんでしょうけど、なにせ最近は秋もいつまでも暑いですものね。でも、とくにこの場所だけが特別ってことは、ありませんでした」

 男は顔に当惑の色を浮かべて言った。「真冬でも熱帯みたいな気温を記録していたと聞きましたが……そのようなこともなかったと」

「そう感じた人もいたのかもしれないけれど、わたしにはわからなかったですね」

「そうですか……大変失礼いたしました。ご協力ありがとうございました」男は困ったような顔をして、腕章をとってジャケットにしまい、それを脱いでシャツの袖をまくりながら、立ち去っていった。じゃあなんだったんだ、あれは……とかなんとか、ぶつぶつ言っている声が聞こえた。


 あのあとわたしの同僚も複数人、新聞社からインタビューを受けたらしい。ある者は別日にわたしとおなじように話しかけられ、ある者はSNSのダイレクトメッセージで取材を受けた。でも、彼女たちにも誰一人として、そんな覚えはなかった。当然だ。いつまでも冬が来ないことに気がついていたのはわたしだけだったのだから。彼女たちもここの夏自体と同様に、ずっと静止しつづけているのだから。どう見ても悪い人じゃなかったあのおじさんが、現実離れした垂れ込みをすかされ続けて当惑しているようすが目に浮かぶ。

「ガイジン、おおいじゃないですか」夏休みも近いたある日、新入りのアルバイトといっしょに園内の食堂でランチを食べていると、彼女がわたしにそう言ってきた。いまどき、ガイジンっていう人いるんだ、死語かと思ってた。

「そうねえ」

「英語、しゃべれるんですか」

「少しだけね」

「すごーい!じゃあ、困ったらお助けお願いしますね」

 この子はかなり声が大きい。

「だめだよ。最初は自分で対応してみて。もしどうしても、何ともならなくなったら、呼んで」わたしは先輩社員らしいことを言った。こういう感じの子の方が、都会の環状線に巻き込まれてもうまいことやっていけるんだろうなと考えた。

「でも、わたし高校の頃に二週間だけアメリカに留学してたことがあるんです」

「ええっ、そっちのほうがすごいじゃん」

「英語は忘れました……というか、もともとまったくしゃべれない状態で行って、まったくしゃべれないまま帰ってきただけですけど。意外となんとかなるもんですね」

 みんな一度は海外に行く時代なんだ。英語が全く喋れなくてもあたりまえのように留学するんだ。いっそだれも聞いたことがないような国に行ってみてやろうかな?そこがわたしの出口かもしれないな。

「ただ、ここのほうがよっぽど変ですけどね……というかたぶん、どんな国よりも」彼女がぼそっと言った。

「そう?どういうところが?」

「まず、暑過ぎないですか?なにこれ。まあ、夏といえば夏ですけど、それにしても街とは気温が違い過ぎます。ハーブ園てもっと避暑地っぽい感じだと思ってたのに。あまりに暑いから周りの子とか社員さんに聞いたんだけど、まあこんなもんじゃない?ってはぐらかされて。でも、確実に異常だと言えます」

 新入りの子の声がさらに大きくなって、横を通る社員がこちらをちらりと見た。

「そう思いませんか?」

「いや、どうだろうな……」

 わたしはおかしくなって笑った。これから少しずつ客の数は増え続け、そして夏休みが終わったら静かになり、現実の季節がゆっくりとここを追い越していく。あの新聞社も、次の取材ではねたを掴めるかもしれない。

「とにかくいいところよ」

 昼食後、ふたりで展望テラスにやってきた。きょうは空気に含まれる水分が多いのか、ここから見える港町はその全体が青い霞にすっぽりと包まれていた。まるで海そのものが細かい霧になって街を侵食しているように見えた。ロープウェイとバスを乗り継げばそこに辿り着けるということがにわかに信じがたいほど、その港町はここから隔絶して見えた。ほんとうは全部が海に沈んでいて、このハーブ園だけが水面から顔を出しているのだとしたら。

 新入りの子は、うわあ、きれいですね、といってインスタ用の写真を撮った。そのあと、現実に戻ったという顔で、「ここって、すぐやめるひと、多かったりしないですか?」とたずねた。

「バイト?そうね……」新入りの子はわたしよりだいぶ背が高く、彼女に話しかけるには、ずいぶんと上を向かなければならなかった。「そういえば、わたしが入ってから辞めた人は見たことがないね」わたしは正直に言った。

「うそ!それじゃ数が増え続けちゃう」

「いや、ほんとうに。ここって、時間止まってるみたいなもんだから」

「ええっ」彼女は驚いて言った。

「じゃあずーっと夏って感じですかあ、嫌だな」

 ハーブ園の空気を彼女の声がびりびりと裂いていった。とてつもなく凪いでいて、雲も植物も微動だにしなかった。よそにはよその環状線があるんだ。この子はアメリカででかい声とテンションを身に付けたに違いない、そうしないと生きていけない場所もあるのだ——わたしはそう決めつけた。それから、アメリカのハイウェイを思い浮かべた。

 そういえば、あの女性は山とか雪とか言っていたけれど、わたしに思い浮かぶアメリカはなぜかいつでも砂漠だった。ハイウェイは高架に乗って砂漠の中を太く突っ切る。それがどこまでもつづく直線に見えても、より大きなスケールで見れば環として閉じているのだ。