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9月, 2023の投稿を表示しています

おしゃべりペット

作者: 髙嶋 大作戦  合鴨が川いっぱいに浮かんでいた。それは川の水よりもずっと多いように思えた。僕がそこに飛び込んだら浮くのだろうか沈んでいくのだろうか。喫茶店の小さな窓から見える川はいつ見ても退屈しなかった。 「ここの描写は死後の世界を表しているのだと思いました」  退屈すぎて話していたことを忘れていた。彼女はここにある現実世界以外は死後の世界に見えるらしい。友人と語り合うつもりで喫茶店に来てみたが彼はガールフレンドを連れてきていた。 「彼の育った環境を考えればこの描写もとてもわかりやすいものです」  すぐに場外乱闘を始めるところも僕を辟易とさせた。作品の中で語るものがないなら何も話さない方がマシだと思った。  手持ち無沙汰だったのでコーヒーを飲もうとカップに手を伸ばすがもうすでに空になっていた。 「そうだね」  僕は無難な相槌を打って友人を見る。彼は楽しそうに彼女の解説に頷いている。昔から権威じみたものに弱い奴だったので仕方がない。人からの目ばかりを気にしていて自分の目で物をみることを知らないやつだ。  こういうときは別のことを考えるようにしている。これは逃げているともいえるし友情を守っているともいえる。いつの間にか使わなくなってしまった有線のイヤフォンとかお気に入りの曲がたくさん入っていたウォークマンとかのことだ。イヤフォンはソニーの水色のやつだ。鮮やかで気に入っていた。僕はいつの間にかブルートゥースの黒いイヤフォンを使うようになっていた。どこで失くしたのかも何もわからない。もしかしたらあの合鴨のたちの中にあるのかもしれない。  彼女は相変わらず作者についてのうんちくを話している。彼女の知識には感心する。いちばん堅実で誠実なもの見方なのかもしれない。  僕がもう一度美人とは言えない彼女の顔を見ると気が狂ったのかと思った。狂ったのは僕の方だ。それは彼女の顔がおさるのジョージになっていたからだ。僕は自分の想像力の貧相さにため息をついた。もっとあるだろうもっとと思った。彼女がふぁーふぁー話すので僕は可笑しくなってしまった。彼女が自分の話で笑ってくれていると思ったのかさらに勢いよくふぁーふぁー言いだした。僕は笑いが止まらなくなってしまって窓の外の合鴨を見るが何も効果がなかった。突然笑い出した僕に驚いたウェイターがこちらを見てくる。彼女の大きくて形のいい耳に僕...

水がこない

   作者: 沼熊  トゥールーズの駅前広場のはずれ、アイスクリーム屋の前に、タクシーは停まった。 「十五ユーロ」運転手が言った。  彼は彼女を先に降ろし、財布を取り出した。このところ大きな紙幣ばかり使っていたので、それらのお釣りで、財布は分厚く、重たくなっていた。彼は五ユーロの紙幣二枚と、二ユーロの硬貨二枚、一ユーロの硬貨一枚を数えた。数えている間に、タクシーのメーターが上がった。 「十六ユーロ五十セントだ」  彼はイライラしながら、一ユーロ一枚と五十セント一枚を追加し、運転手に手渡した。 「時間がかかった、払うのに」運転手が下手な英語で不愛想に言った。そういうものだ。彼は、なにも言わずに承知した。 「メルシー」  彼が降りるか、降りないかのうちに、タクシーは発車した。不機嫌なのはこちらなのだといわんばかりに、速度を上げて、幹線道路に合流していった。 「大丈夫だった?」と、彼女が聞いた。彼はただ顔をしかめた。 「うわあ、綺麗」  壁時計のついた赤煉瓦造りの巨大な駅舎が、うすい闇の中で、下からのライトに照らされ、そびえたって見えた。駅前広場にも同じ色の煉瓦が敷き詰められていたが、電灯が乏しく、周囲の店の明るさから外れた人々はみな一様に陰にとけこんでいたので、駅舎がその存在感を増したのだ。多くの人が、その暗い、しかしぱりっとした広場に腰を下ろして、コーヒーを飲んだり、アイスクリームを食べたりしていた。 「予約は何時だったかな」と彼は彼女に尋ねた。 「十九時半」 「遅れそうだ」彼は駅舎の壁時計を見て、そう言った。 「いいじゃない。みんな時間を守るような国じゃないでしょう」彼女は、広場に座っている若者たちを順番に見渡しながら言った。まるで彼らがひとり残らず大道芸人でもあるかのように、興味深そうに見た。 「ねえ、あれ見てみない」  駅舎の横にある白く高い建物は、観光案内所、という古い看板がついており、なにか歴史にかんする展示をしていることを示す幕がかかっていた。 「明日ね。時間があったら」  彼らは案内所の前を通り過ぎ、予約していた料理店に向かった。彼女が、まちきれない、という様子で少し早歩きになり、先を行った。彼は、その後ろでこっそりと地図アプリを開き、もう一度、目的地の情報を見た。五つ星のなかの四つと半分に色がついていた。  一番上のカスタマーレビュー...