水がこない
作者: 沼熊
トゥールーズの駅前広場のはずれ、アイスクリーム屋の前に、タクシーは停まった。
「十五ユーロ」運転手が言った。
彼は彼女を先に降ろし、財布を取り出した。このところ大きな紙幣ばかり使っていたので、それらのお釣りで、財布は分厚く、重たくなっていた。彼は五ユーロの紙幣二枚と、二ユーロの硬貨二枚、一ユーロの硬貨一枚を数えた。数えている間に、タクシーのメーターが上がった。
「十六ユーロ五十セントだ」
彼はイライラしながら、一ユーロ一枚と五十セント一枚を追加し、運転手に手渡した。
「時間がかかった、払うのに」運転手が下手な英語で不愛想に言った。そういうものだ。彼は、なにも言わずに承知した。
「メルシー」
彼が降りるか、降りないかのうちに、タクシーは発車した。不機嫌なのはこちらなのだといわんばかりに、速度を上げて、幹線道路に合流していった。
「大丈夫だった?」と、彼女が聞いた。彼はただ顔をしかめた。
「うわあ、綺麗」
壁時計のついた赤煉瓦造りの巨大な駅舎が、うすい闇の中で、下からのライトに照らされ、そびえたって見えた。駅前広場にも同じ色の煉瓦が敷き詰められていたが、電灯が乏しく、周囲の店の明るさから外れた人々はみな一様に陰にとけこんでいたので、駅舎がその存在感を増したのだ。多くの人が、その暗い、しかしぱりっとした広場に腰を下ろして、コーヒーを飲んだり、アイスクリームを食べたりしていた。
「予約は何時だったかな」と彼は彼女に尋ねた。
「十九時半」
「遅れそうだ」彼は駅舎の壁時計を見て、そう言った。
「いいじゃない。みんな時間を守るような国じゃないでしょう」彼女は、広場に座っている若者たちを順番に見渡しながら言った。まるで彼らがひとり残らず大道芸人でもあるかのように、興味深そうに見た。
「ねえ、あれ見てみない」
駅舎の横にある白く高い建物は、観光案内所、という古い看板がついており、なにか歴史にかんする展示をしていることを示す幕がかかっていた。
「明日ね。時間があったら」
彼らは案内所の前を通り過ぎ、予約していた料理店に向かった。彼女が、まちきれない、という様子で少し早歩きになり、先を行った。彼は、その後ろでこっそりと地図アプリを開き、もう一度、目的地の情報を見た。五つ星のなかの四つと半分に色がついていた。
一番上のカスタマーレビューを開いた。その難解な言語を日本語に訳すと、評価がくだされた――「素晴らしい住所、素晴らしい製品、素晴らしい時間。価格と品質の比例はそこにあります」
それはたしかにすばらしい食事――「製品」であった。凝ったソースも味付けもすばらしかったが、彼はとりわけ、肉、魚、野菜、すべてのものに適切に火が通っていることに感心した。彼はとくに美食家というわけではなかったが、それでも、よい料理とさほどでもない料理を味わい分けるだけの舌をもちあわせていた。
彼は目の前に座っている女性を見た。彼女は、ひと品めがでてきたときから、いっさい口をきかなかった。ただ順番に出てくる料理を、じっくりと眺め、口に運び続けていた。つきあいの長い彼にとって、それが彼女にとっての最高級の賛辞であることは、よくわかっていた。
ウェイターが魚介類を煮込んだ料理をはこび、ていねいに給仕して去っていった。そのとき、彼女が思い出したように言った。
「そういえば、水は?」
店内は繁盛していたので、ふたりは、ウェイターがうっかりそれを忘れているのだと理解した。それで、彼は、つぎにウェイターが近くを通り過ぎたときに、軽く声をかけた。ウェイターは驚き、立ち止まった。
「水がまだ来ていないのですが」彼は言った。
ウェイターはそれを聞いて、さらに驚いたように見えた。彼は、ウェイターが、この格調高い料理店ではめずらしい、平凡なミスをしたことに、とまどっているのだと思った。それで、ウェイターを安心させるように、微笑んだ。
ウェイターは、怪訝そうな顔をした。少し間を空けて、「ご注文されておりましたでしょうか」とフランス語で言った。
彼はそれを理解しなかった。恥ずかしさに、彼女の方を見ないようにしながら、小声で「オーケーです」と言った。しかしウェイターもその意図を解せず、しばらく気まずい空気がテーブルに流れた。隣の席の老夫婦が、無遠慮に彼らを見た。ウェイターは、呆れたような表情をありありと浮かべたが、やがてにっこりと笑って、「メルシー」と言った。そして、足早に去っていった。
「トイレに行ってくるね」彼はその声で彼女に向き直った。彼女も足早に、ウェイターが向かったのと逆の方向に去っていった。
彼は、ウェイターになにが伝わらなかったのか、そして彼はなんと言っていたのか、と、気になった。もしかしたら、旅行ガイドに書いてあるかもしれない。しかし、いまカバンの中からそんなものを出すのは、なにかみっともないようなことである気がして、店内をぼんやりと眺めていた。
「バカだなあ」テーブルの下から声がした。
彼は覗き込み、ぎょっとした。小さく、醜いねずみが一匹、首をかしげるようにして、彼を見上げていた。ねずみは、先ほどまで彼女の右足があったところに、奇妙に二本足と、お尻でバランスを取って立っていた。彼は周りを見渡した。そして足をのばし、ねずみを追い払おうとした。ねずみはそれに気づいて後ろに少し駆け、また二本足で立ち、彼の方を意地の悪い表情で見た。
「水はな、黙ってても来ねえんだよ。メニューに書いてあったろう。あーあ、残念だったな。ここのオーナーは意地が悪いぞ。フランス語も使えねえ、英語もまともにしゃべれねえ、お作法もわかってねえやつがくるとこじゃあないんだよ。お前、十倍は吹っ掛けられるぞお」
ねずみはこれだけを一気に言った。日本語で言った。その悪意は彼だけに向けられていたからだ。そのあと、また四本足で駆けだすと、白い壁にそって厨房のほうへ消えた。
間を置かずに彼女が帰ってきた。ウェイターも帰ってきた。ウェイターはペリエの大きい瓶と、小さなグラスを二個運んできた。
「お待たせいたしました。ムッシュウー」
ウェイターは歌うように言った。楽しそうに、彼と彼女の前にグラスをひとつずつ置くと、芝居がかったしぐさでペリエを開栓し、それぞれに注ぎ、ねずみのような速足で、また厨房の方に帰っていった。
彼女が感心したように言った。「すごいじゃん。あれでちゃんと伝わるんだね。よかったあ」
彼は、思わずもう一度、テーブルの下を覗き込んだ。「なにか落としたの」という彼女の声が上から聞こえた。やはり、そこにはねずみはおらず、彼女がパリで買った青いエナメルの靴がふたつ、持ち主の足先からぶら下がっていた。