天竺まであと何周?
作者: 沼熊
どうせまた来シーズンがある、って言った?さだかではない。でも、「どうせ」ははっきりと聞こえた。ヒサカドは笑っている。まわりの選手たちも笑っている。あいつの影響力は絶大だ、よくも悪くも。だから、俺が行かないといけない。キャプテンの俺に、その責任がある。
「どうせ」は駄目だ……使ってはいけない言葉のリストにはいっている……というか、ミーティングでそれを提案したのはあいつ自身だったような気がする。考えごとばかりして俺はいっこうに立ち上がらなかった。とにかく、ことを大きくしたくはないし、そうするべきでもない、と自分にはそう言い聞かせた。午後の練習ですでにヤマナカが練習態度を監督に咎められ、いつ終わるかわからない罰走の旅に出ている。俺は窓越しにグラウンドの方を見た。あいつ、ぜんぜんペースが落ちない。もう三十分は走りっぱなしじゃないのか。ひとりで、黙って、何周も寸分違わぬ身体の動きで、お掃除ロボットのように走っている。
俺はヒサカドの取り巻きがいなくなるのを待つことにした。ことを大きくしないため、荒立てないため、と心の中でまた何回も考えた。ヒサカドはどうせ最後まで残る。それはわかっていた。そういう奴だ。才能があって、技術があって、ストイック。でかい。筋力にも心肺機能にも優れている。そのうえリーダーシップも求心力もある。このトレーニングルームに携帯持ち込み禁止の規則をつくったのも彼だったということを、俺は思い出していた。だからこその不可解な発言であった。
しばらくするととりまきがいなくなって、まだ練習場に残っている選手は三人になった。トレーニングルームには俺とヒサカド、それにグラウンドにいるヤマナカ。それにしても、監督はまだいるのだろうか。もしかして、ちょうどいいところで俺があいつの罰走を止めないといけないのか?六月ももう終わりが近づいていて、外はいつまで経っても昼間のように明るいし、ヒサカドとの話が終わったら、一声かけようか。そうしないと、あいつは倒れてしまうかもしれない。
俺はがんばって、また部屋の中に意識を戻した。彼に近づいた。ヒサカドはかなりの負荷がかかるトレーニングをしていた。顔が歪んでいるのを見下ろしていると何だか笑いそうになった——いまからしようとしていることを考えたら、まったく恥ずべき話だ。
さっき、みんながいたとき、とやわらかい口調で、俺は話し出した。来年がどうとか、そんな話をしていただろう?
ヒサカドはトレーニングを中断して、ちょっと考え込んだ。いいや、そんな話をした覚えはないね。
来年じゃなかった、来シーズンだったかもしれない。
どっちにしたって、そんなの覚えてねえよ、とヒサカドは言った。何が言いたい?
決勝前の大事な時期なんだから、チームの足を引っ張るようなことは言うな、てことだ。
そんなこと……そんなわかりきったことを言いにきたのか?ヒサカドは憤ったように言った。俺もヤマナカみたいに走らせるつもりか?
ヒサカドは言葉を切って、それからさっきまでの俺みたいに、グラウンドの方を見やり、一番遠いところにヤマナカの姿を認めた。ところであいつ、誰かが止めないと死んでしまうぞ……。
決勝は敗けた。惜しかった、よくやった、とあとからみんなに言われた。たしかに点数の上では惜敗だったが、フィールドにいる選手には、惜しくもなんともなかったということが——相手との力量の差が身に染みてわかるような、そういう敗北だった。まるでスコアボードが実力差を反映させるのをうっかり忘れていたみたいなゲームだった。そういったことはときどき起こる。
とにかく、さいごに対戦相手や審判や観客に挨拶をしないといけない。俺はフィールドを見渡して、端のほうに倒れ込んでいるヤマナカのほうへと向かった。ヤマナカは地面にうずくまって起き上がれない。
おい、と俺はヤマナカを見下ろして言った。返事をしないので、無理やり腕を掴んで引き上げようとした。
おい!惜しくもなんともなかっただろう……。
酷いことを言った。今年になって急激に成長し、二ヶ月でCチームからあがってきたヤマナカに対して。もしかしたら、今回が最初で最後のチャンスだったかもしれないのに。嗚咽のあいだに、そうだよな、そうだよな、と繰り返しながら、ヤマナカは立ち上がり、列に入った。
それから、ヒサカド——あいつはもちろん、列からちょっと離れたところで、空中をながめてぼーっとしている。怒りも、悲しみも感じ得ないかのような空虚な表情、勝ったときはしらけるし負けたときは腹立たしい。俺が怒鳴るとヒサカドはゆっくりとこちらを見た後、おとなしく走り寄ってきて、列に入った。
一列に並んで、頭を下げた。そのとき脳内に、フラッシュバックする映像——昨シーズンもここで同じようなところで敗退して、こうやって、頭を下げなかったか?その前はどうだったっけ?練習の風景、格下相手との練習試合、バス移動、ベンチからBチームの試合風景を観ること。どの景色がどのシーズンだったのだろう。あまりにも同じような光景が毎年起こりすぎていて、俺は混乱した。この敗北にささげるべき、美しい記憶はどれだ?
顔を上げた。音が戻ってきた。喜ぶ対戦相手、ほっとした顔を堪えているような審判、悲しむ観客や関係者が見えた。そのどれにも顔を合わせたくなかったので、高いところを見上げた。アメジストみたいな色の天球があって、刷毛で塗ったような雲がいつもより高いところに張り付いていた。どれもこれも、こんなに遠かったっけ?と思う。周りでいろいろな声が飛び交う中、ぼーっとして、この試合、いまから無かったことにならないかな、と思った。積乱雲が発生して激しい雷雨になってくれればよかった。そうしたら、こんな恥を晒さなくて済んだのかもしれなかった。それから、もし奇跡が起こって時間が巻き戻ったとしてもなんの助けにもならなそうな貧弱な雲を見ていると不思議と腹が立った。
その試合を最後に引退を決めたのは俺と、ヒサカドだった。どのみちあいつには来シーズンはなかったのだ。なおさら不可解だ——そう思ったあとで、我ながらあれをいつまで根に持つのだと苦笑いをした。結局あのあと、言った言わないはどうしようもなくなって、うやむやのまま話は終わったのだ。
最後の試合から数日経って、俺とヒサカドは皆の前で挨拶をした。ヒサカドは相変わらず何も考えていないような顔をして、どのスポーツのどんな選手にだって言える短い挨拶をした。それを聞きながら、こいつは言葉を信用していないのだ、と思った——少なくとも、規則とか、契約とか、そういったもの以外はなにひとつ。自分がぽつりとつぶやいたことなど、とうてい覚えているはずがない。最後に挨拶する俺は、ヒサカドの後始末をするように長くて、濃いスピーチをした。
それから監督が短い挨拶をして、俺とヒサカド以外の選手はみな練習場へと出ていった。二人だけが薄暗いミーティングルームの椅子に座ったままだった。あのヒサカドにも、これですべておしまいかと思えばさすがに感じるものがあるようだった。われわれはどちらも、この部屋にあるものを大きなものからひとつずつ記憶に配置していくように、部屋を眺めた。しばらくして、意外にもヒサカドのほうから話しかけてきた。次どうするのか決まっているのか、と聞いてきた。まだ決まっていない、と俺は答えた。あのこと、まだ根に持っているのか、と冗談っぽく聞いてきた。いいや、と俺は答えた。それから少し静かになった。グラウンドの方から微かに音が聞こえてきた。誰かが大きな声を出している。
一回だけ優勝に手がかかったように思えたとき、とヒサカドは言った。あのとき、怖かったのを覚えている。なにしろ練習はきびしい、重圧もすごい、競技そのものが楽しかったのかどうか、俺には自信がない。とにかく、皆、勝ち取れば幸福になると信じているバカばかりだろう?でも、いざ勝ち取ってみれば、それはゴールでもなんでもなくて、そう、結局これは無限のゲームだ。ひとつひとつの試合にはルールも終わりもあるけど、俺たちが実際にプレーしているのはそのゲームの方じゃなくて、かぎられた選手生命をどう生きるかとか、よりよいプレイヤーを目指すとか——できるだけそのゲームを終わらせないようにすることが目的のゲームなんだな。そしてそれは、おそろしいことなんだ。
俺は黙って聞いていた。いまさらながら、ひどく貧弱に響くものだ。主力がこれでは何も勝ち取れないのだ、と思った。
それからヒサカドは、お前、こんなキツいってわかってても、生まれ変わったらまた、これやるつもりか、と聞いてきた。
ひとしきり黙った後、ヒサカドは、こんなことやるんじゃなかった、次はもっと知性的でクールなことをやるつもりだ、と言って、それで会話はおしまいになった。経営とか、芸術とか。言葉に熱があった。それは、ここ何年かの自分に対する反動だったのにちがいない。そうか、と俺は黙って聞いていた。けっきょくぜんぶ一緒な気がするなあ、と思ったけれど、そうは言わなかった。たとえば、毎年利益をあげつづけることへのプレッシャー、たとえば、作品が評価されたりされなかったりして、また新しいものを作るサイクル。それぞれに終わるタイミングがあり、それぞれに勝敗があり、それを覆う無限のゲームの存在だってある。きっと一緒だよ。
それでも、ヒサカドがミーティングルームを去ったとき、俺はこの部屋でこんなにも個人として剥き出しにされ、放り出されたのははじめてだという気がした。まったく、他人のこと、チームのことばかりで、自分自身に向き合うことから逃げていた。俺はいったい何に向かうのだろう?同じようなシーズンが毎年循環する流れを外れて、どう生きていくのだろうか、まるで天体を振り切って宇宙空間に放り出されるみたいに。
たかが、いち競技。ミーティングルームを抜けて、徒歩で敷地を抜けながら、俺は何度もそう考えた。勝とうが負けようがごく一部の人間にしか影響しない、小さな世界だ。だから、そこから俺がいなくなっても大丈夫だし、俺から競技の世界がなくなっても平気だ。生まれ変わったらこれをまたやるか?それについてはどうだろう。
どうだろう……、そう考えながら、走り始めた。いつもの癖が出てしまったのだ。まるで、ランニングシューズとチームのジャージを着て外に出れば、選手生活の終焉も関係なしに、身体がこう動くようにプログラムされているかのようだ。あの日、試合会場で生まれたのよりも何倍も濃い既視感が俺にあらわれた。当然だ。このコースは外周ランでなんどもなんども走ったのだから。敷地の白い柵越しに椹の生垣がはみ出している長い直線道路、それを通り過ぎると住宅街に抜ける斜めの道に入る。道の入り口には釷丹の波板でできた小さな小屋があり、近くの電柱が少しだけ傾いている。たとえここに住んでいる人間にだって、この景色がわかるものは多くはないだろう、この街は、その中を歩くのと走るのとではすがたが違うのだ……。俺の足の運びとともに、道の両側のそれらは独特なリズムで生成してくる。ずっとそこにあったように、それでいて、初めてここにあらわれるのだ、というように。ずっとそこにあったように、そして、最初からこうでしかありえなかったのだ、というように。何度か角を曲がり、山に向かって延びる広い道にでて、俺は息を整えながら歩いた。山のくぼみが黄色い太陽に横から照らされているようすが見えた。そこがこのチームの選手たちが走り回る箱庭の境域だった。
そこにはチームのジャージを着た皆がいた。平気そうな顔で歩いている者もいれば、両手を膝について息が上がっている者もいる。去年引退した選手も、一昨年引退した選手も、皆がそこにいた。短い間在籍した選手もいた。十年以上在籍した選手もいた。彼らがどういうあり方をとったにせよ、それは必然だったにちがいない、と俺は思った。
ヤマナカが気づいてこちらに近づいてきた。そして、キャプテンがこれでは、といった。決勝前の大事な時期なんだから、チームの足を引っ張るようなことでは困る。
俺が文句を言いかけて口を開くと、ヤマナカはそれを制して言った。つぎの周回が始まるから、準備しな。
あと何周?
それはわからない、とヤマナカは言った。わからないから、いくら言っても無駄なのさ。