埠頭
作者:沼熊
確実に沈められる場所を探すところからはじまった。遠浅の砂浜を果てしなく押していくわけにも、四つ足をそれぞれ持って神輿みたいに運ぶわけにもいかない。かといって崖から落とすわけにもいかない。水に沈む前に、まちがって岩にでも鍵盤が当たれば大惨事だ。村の人間全員が起きてしまうような音だ。彼らはどこからともなくやってきて、まちがいなく、僕たちを問い詰めるだろう……。
だから、場所は慎重に探す必要がある。
O市の近郊に車で入りやすい埠頭が数ヶ所あって、僕たちは借りた車でそれらを順番にまわった。条件に合うところはなかなか見つからなかった——ひとつは真下の海が浅すぎ、ひとつはコンビニエンスストアに近すぎ、ひとつは水面から突き出すごつごつした岩が悪印象だった。そうやって、紙に印刷した候補にひとつずつ赤ペンでバツをつけていった。
紙に地図を印刷したのなんていつぶりだろう?
おそらくまだ、あの田舎町にいたときのことだ。僕は父親が印刷した海浜公園の地図に、赤ペンでマルをつけていった——魚とりのしかけをセットした場所に。あれから、僕は故郷を出、父親は亡くなり、それから一緒にすごす人間は、すくなくとも、かなり劣悪になった。いつから、こうなったんだろう。
「そこ、左」
「え?」
「あーあ。次の信号で大通りを右に入って、でぐるってまた回って」
「ごめん、ぼーっとしてた」
助手席の彼女はそっぽを向いて、窓の外に煙草の煙を吐き出そうとしていた。カーシェアの会社に車内での喫煙がばれたら大問題になるが、彼女は生まれながらの悪人だったので、そんなこと気にしないのだ。彼女については僕はあまり詳しいことを知らない。あくまで、今回沈めようとしているピアノを介した関係というだけ。
僕は大通りを右に入り、ぐるりと回ってまたさっきのバイパスに入った。潜り込んだ、といったほうが似合う。土曜日で車の流れは多く、道の両脇には釣具店や葬儀屋が見える。こいつら、こんなにとろとろ走って、どこに何をしにいっているのやら見当がつかない。
僕がそういうと、彼女は、「皆海になにかを捨てにいっているんだよ」といった。僕は内陸育ちだったので、そういうこともあるのだろうかと思った。
最後の候補地、すなわちまだバツがついていない埠頭にたどりつくには、舗装された道から降りる必要があった。僕はこんどは正しいタイミングでハンドルを左に切った。砂を巻き上げ、船着場や新鮮な魚を売る店を通り過ぎ、僕たちはそこに辿り着いた。
ひと目見て、そこが理想的な場所だということがわかった。まず、車からピアノを下ろすための広大な土地がある。それから、街灯もろくに用意してもらえないくらいに、人里から離れている。なにしろ、かなり長いこと舗装されていない道を走ったのだ。エンジンを止め、車から降りると、その場所の静けさに僕たちは気がついた。まるで何世紀も隔たっているとでもいうように、かすかに遠くの車の音が聞こえ、すぐに冷たい風の音にかき消された。
「ここでいいんじゃない?」彼女が言った。
僕は車に戻って、いまの場所に大きく赤いマルをつけた。でっかい魚が引っかかった仕掛けの場所と同じ印だ。
決行は、次の月の第一日曜日の夜中——つまり、日付でいえば月曜日の未明になる予定だった。日曜の夕方に彼女から連絡があった。彼女の裏の人脈を使って、こんどはピアノが載るくらいの車を借りたのだ。それがどういうものなのか、僕には想像するのが難しく、とにかく大きいトラックだと馬鹿みたいに考えた。
午後十時に、ピアノを隠している倉庫に集合し、積み込み作業を行うことになっていた。
僕はまず軽自動車に乗り、ひとりで裏山の倉庫にやってきた。雨が降りそうで降らない、とても寒い夜だった。僕はとんでもなく冷え切ったレモンのホット飲料を飲み干して車を出た。
倉庫は、とたんやプラスチックをつぎはぎしたみすぼらしいものだった。もともとは近くの畑をやっていた人が鋤やくわや肥料や、その他必要なものを置くために自分で建てたものらしかった。あらためて見ると、中に入っているピアノより小さいんじゃないかと思うほどだ。錆そのものみたいなボルトが、建材同士をなんとか崩壊しないように繋ぎ止めていた。
僕は申し訳程度についている南京錠を四桁の番号で開けると、扉を開いた。
ピアノがそこに眠っていた——こんなところにあってもやはり見事なピアノだ。全体を黒で塗られているにもかかわらず、それはまったくといっていいほど周りの闇に溶け込んでいない。それから少しして、重さがきた。そのピアノの重さ、光沢がはっきりとわかる塗装に包まれた木材の重さ、それから音を出すためのひとつひとつの機構が集まったものとしての重さ——その完成された重さが、束になって周りの空間を押しつぶしているような感じだ。
僕は、数時間後にはピアノがこの完成された重さを失い、物質の塊になることを思った。
ピアノに近づき、鍵盤の蓋を開いた。それから、深海魚のようにやわらかい臙脂色の布をとった。白い鍵盤はピアノの表情に見えた。ピアノが弾けたら、と思った。実のところ両親は機会があるたびに習わせようとしていたのだ。僕はその代わりに選んだ人生の結果として、悪友と付き合い、悪人と付き合い、掘建小屋の中で、これから沈めようとしている見事なピアノの前に立ち、メジャーCの和音を弾いた。
お遊戯会を思わせる間抜けな明るさに響いた。世界で僕にしか聞こえていない音だ。
しばらくしてやってきた彼女には度肝を抜かれた。JRAのでっかいロゴがついた馬運車——つまり、競走馬を運ぶトラックに乗って現れたからだ。
「なに?それは」
「いいでしょう。少なくとも、大きさは十分なはず」
彼女が危なっかしい運転でその車を小屋の横につけた。動物園みたいなにおいがした。
「運び込もうか」
僕はその車をどこからどのように入手したのかは聞かないでおいた。聞いても恐ろしいだけだ。
「スロープがついてるから。あたしはそれ、準備してるから、あんたはピアノを出してきて」
彼女はまるでその作業に慣れているかのような口調で指示を出すと、てきぱきとした動きで、トラックの後ろに、幅の広いスロープをとりつけ始めた。僕は普段のこの車の様子を想像した。優雅に頭を上下に振りながら、調教師に引かれてそのトラックに乗り込んでいく競走馬の様子。
「急いでね」
僕は小屋にもう一度入り、いちおう、ピアノの外周を点検し、蓋やパーツがしっかりと固定されていることを確認してから、念入りにブルーシートの覆いをかけた——どうせ沈めるものだとしても、それまでの間はせめて、つまらない傷をつけさせたくはなかった。
彼女がやってきて梱包が丁寧過ぎると文句を言い、僕たちはキャスターのついたピアノを小屋から押し出し、やっとのことでスロープを上らせてトラックの中に入れた。それから、車の中で動き回らないように色々なところを車内の出っ張りにくくりつけて固定した。そのあとで、彼女は運転席に、僕は助手席に乗り込もうとすると、トラックの前方にピンク色で文字が印刷されていることに気がついた。
「〈ブエナビスタ〉って何?」
「馬の名前でしょう、多分。そいつを運んでたのか、それとも、有名な馬の名前で、それがトラックの愛称に使われるようになったのか」
「スペイン語だね」
「あそう」彼女は興味なさそうに言った。
意味は絶景だ。でも、日本語で絶景と言うよりも、スペイン語でブエナビスタと言われると、なんとなく海の香りがする。おそらく、南米の、どこか田舎町を外れた海岸だ。海辺には安宿や簡単な作りの倉庫があるだけで、ほかには何もないし、秋を過ぎれば人の気配もしない。そういうところに僕は一人でいて、切り立った高い崖の上から海を見下ろしている。朝日が金色に光って、海からところどころ顔を出した岩に水が当たって、白い泡になって弾けている。
それから、真っ黒なピアノがそれらの全ての光を吸収するように、その真ん中をゆっくりと沈んでいく。
僕たちは海の方へと馬運車を飛ばし、高速から降り、バイパスを降り、埠頭に向かった。馬運車に乗っていると誰も煽ってこない——競走馬にかかっている大金が怖いので、放っておいてくれる。絶対に隠したいものを運ぶとき、こんな目立つ車に乗っているのはかえって好都合かもしれない。僕は彼女の慧眼に感謝した。
埠頭につくと、僕たちは誰も見ていないことを念入りに確認して、ピアノを引き摺り出し、ブルーシートの包みを解いた。
「あんた弾けるの」
包みを解き終わったとき、彼女が聞いた。
「ピアノ?いや、まったく」
「あら、そう」
「弾けそうに見えた?」
「別に。でもあたしもそうは見えないでしょう」
たしかに、彼女がピアノを弾いているところを想像するのは難しい。それはまるで、ジャイアントパンダがピアノを弾いているのを想像するのと同じくらいに難しい。
「実はね、中学校二年生までやってた」
「なんか弾いてよ」
「やだ。もう覚えてないよ。それに、うるさいし」
「でも、こんなに綺麗なピアノなのに。せめて沈む前には、誰かに演奏してもらえればね……」
彼女は、そんなセンチメンタルみせるから、悪人になりきれないの、とかなんとかぶつぶつ言った。僕たちはピアノを埠頭の端ギリギリまで押して行った。月の明るい夜で、海面は鈍く光っていた。ああ、ぜんぜんブエナビスタじゃない、と僕は思った。空は暗く、海は真っ黒で——このままではこいつはけっして主役になれないだろう。漆塗りが由来といわれるその表面は、すぐに見えなくなってしまうだろう。
しかたない。
「やっぱり、やめよう」と僕は言った。彼女がこちらを見た。
「ピアノはこのブエナビスタ号で持って帰る。そのあとの処理はなんとかするよ。で、なにか曲が弾けるようになるまで、練習する。なんでもいい」
「そう。好きにすれば」
彼女は、我関せずといった具合で煙草に火をつけた。僕は無言のまま、彼女が一本吸い終わるのを待った。そのあと、僕たちはピアノをもう一度梱包し直し、スロープの上を引き上げてブエナビスタにのせた。
「ありがとう」
僕は彼女に礼を言った。彼女は無言のままシートベルトをしめ、エンジンをかけ、この大きなトラックを始動させた。また、ゆっくりと埠頭が離れていく、海が離れていく。少しして街灯に照らされた産業道路に戻ってきたとき、僕はほっとした。また、当分は海に縁のない生活が続くのだろう。それから、ときどき何かを沈める必要にかられ、思い出す。
「あんた、家に置くところあるの?」
「さあ、ないだろうな」僕は言った。「あの小屋に置いとこうか。ときどき週末に遊びに来て、練習しようか。それから、ときどきは海を見にいくよ」