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作者: 沼熊  こんなにはっきり見えるとは思っていなかったので、ちょっとユーモラスですらあった。高木が仕事から帰ると、アパートの階段の下に、身なりのよい子供が立っており、道ゆく人をじっと眺めていた。髪は西洋風になでつけられており、パリッとした明るめの紺のブレザーと、揃いのトラウザー。この田舎村では珍しい格好なのに、だれ一人としてそちらを気に留めないから、高木にしか見えないのだとわかった。少年のほうは、こちらには見向きもしない。通行人が数名、むしろ高木のほうをちらちらと、不審そうな目つきで見た。 「数日中には、もしかしたら幻覚が見えはじめるかもしれません」二日前に医者は言った。高木は脳神経系の難病にかかり、幾人もの医者の紹介を経て、やっとのことで大都市Qの総合病院にたどり着き、そこで世界的にみても数例しか実績のない特殊な手術を受けたのだった。 「幻覚、ですか……」 「怖いですか」医者が案じるような調子でいう。 「ええ、まあ」  夏の病棟に風が吹き、レースのカーテンが揺れて、その向こう側にある太陽光がこぼれてきた。高木は、照らされたその白い壁や廊下のうえに、水墨画のように意味を持った模様が次々と浮かび上がる様子を想像した。幻覚ときいても、イメージできるのはその程度のものだった。 「目を閉じても、幻覚は消えません。あたりまえといえば、あたりまえのことですが」医者は自分が苦しんでいるかのように顔をしかめながら言った。「睡眠薬を追加しておきますから、もしほんとうに耐えられないほどのイメージにおそわれたときはそれをお使いなさい。もっとも、これは最終手段なのであまり高頻度で使わないように。あまりにもおつらいときは病院に電話してください。では、おだいじに」  病院を後にし、高木は今にもおそろしい幻影が見えるのではないかと戦々恐々としながら、それでも翌日から会社には普段通りに出勤した。都心のオフィスビル街を歩いていると、それまでにも毎日見ていたその人混みの中に幻覚が二、三人紛れていたって分かりようがないという考えに囚われはじめる。どこかで死んだ自分の祖父母とすれ違っているかもしれない、狼男が乗車してくるかもしれない、改札で目の前を歩く人間には顔がないかもしれない……。高木はいま地下鉄のプラットフォームを歩く人たちを生成しているのだ。この人間たちはどんな怪物だってありえる。原理的にいえ...