白い部屋
作者: 沼熊
いにしえから多くの創作者たちが、世界の果てにひとつの閉じた空間を仮定した。それはものの大きさが奇妙に捻じ曲がった空間であったり、時間が引き伸ばされた空間であったり、善と悪がひどく記号化された空間であったりした。『二〇〇一年宇宙の旅』を除けば、それは概ね、文章化された世界の特権だった。
大学を卒業してからの俺は職を転々としており、社会人経験は三年にして、勤務先は五社目だったし、そこだってそろそろ辞めようと思っていた。俺は業務の八時間のあいだは愛想よく振る舞い、昼休みや終業後には、時間きっかりに――アラームクロックのような正確さで――態度を変え、他人との会話を拒んだ。それから、会社の裏の公園でチェーンスモーキングをする。そこで二本分の煙を休み休み吸い、ときどき素晴らしい音楽と出会った。
俺が《白い部屋》に出会ったのは、昼休みの公園通いをはじめてからだいたいひと月あたりが経過したころだった。オフィスビルを出るとそこはすぐ大通りで、俺はいつも顔をまっすぐに上げて少しだけ歩き、すぐに公園に通じる脇道に入る。そうすれば、だれにも見られる心配がなくなるので、俺はすぐに煙草を取り出して火をつける。耳にはずっとイヤホンを挿しっぱなしだ。
その日、脇道に入ったところで、誰かが近づいてくる気配がした。紺色の作業服のような格好をした、自分より少しだけ年上に見える、中肉中背の男だった。
俺はイヤホンをとった。
「済まへんなあ」と、男はいった。「火ぃ、貸してくれんか」
このへんでは珍しい関西弁の男だ。俺ははいともいいえとも言わずにさっきライターを入れた上着のポケットをさぐった。
「……す」俺は何週間も声を出していない人間のようにかろうじて音を絞り出し、プラスチックのライターを手渡した。
「ありがとうなあ」
俺ははじめて顔をあげ、男の目を見た。よく見ると、目の焦点が少しだけ合っていない。
「にいちゃんは、どこの?」
「どこの?」
俺は繰り返した。明かに正気でない人間に相対する場合の処世術を、あの頃の俺はひとつも持ち合わせていなかった。
「裏の会社で」
「ほな、お部屋にいっとんとちゃうんかい」
「お部屋……オフィスビルですが」
男は意味ありげな目つきに変わってこちらを見た。
「この公園の地下にある、白い秘密のお部屋やがな」
公園に地下があるはずもなし。俺はこれ以上この男の関わり合いになるまいと決意した。男がライターを自分のポケットに入れてしまったが、それには目を瞑る。
「すいません。戻らないといけないので」半分以上残った煙草を投げ捨て、靴の裏で消しながら、俺は決して視線の合わない男の目を見て言った。それから踵を返していったん会社の方に戻ろうとした。
「ちょっと、またんかえ」
そこで、男はわざわざ俺の肩をつかんで止めてきたのだ。
「なに、……」
「部屋いったことないやつを連れてくのが俺の仕事や」
俺は男の手を振りほどき走り出そうとしたが、不思議と冷静にその場に立ち止まった。そしてでふと思った、奇妙な冒険だが、すこし時間をつぶすのもいい。
「わかりました、じゃ、連れてってくださいよ」
それだけこの生活に――毎日何も起こらないということに、飽き飽きしていたのだ。
俺は男について歩いた。
男は公園に入ると、ずんずんといちばん奥にある砂場のほうへ進んでいった。「この砂場で誰かガキが遊んどるとこ、見たことあるけ」
そういえば、砂場どころではなくこの公園で子供が遊んでいるところを一度も見たことがない。いつも喫煙者のサラリーマンがいっぱい居るだけだ。もしかしたら、休日には子供で賑わうのかもしれない。
「ほんな、わけなかろ。危ないに決まっとるやろ」
男が俺の背中をぽん、と押すと、俺はバランスを崩して砂場に踏み込むかっこうになった。そのとたん、乾いた砂が渦を巻きはじめ、俺の足元を絡めとるようにして動いた。俺がじたばたと動くたびに、砂が足の甲を、くるぶしを、ふくらはぎを、と飲み込んでいく。公園の両脇のベンチに座る人々は、皆自分の手元や膝の上にのみ興味をしめしていたので、一人の男が今砂場に飲み込まれようとしていることにまったく気がついていないようすだった。
俺は砂に沈んでいった。男が、「声出んやろ」と低い声で言った。
それで、そこにあったのが《白い部屋》である。八角形か六角形か……正多角形であったことは間違いないと思う。それ自体が発光しているのかと見紛うほどの白い壁に囲まれながらも、それらの壁には等間隔に折れ曲がりが発生していて、そこにはごく薄く、影が落ちていたからだ。おそらく、向かい合う辺どうしの距離は十五メートルほど。俺はその部屋の真ん中に立っていた。男は消えていた。
俺はゆっくりと息を吸って、吐いた。息を吸うたびに部屋が膨張していく感じが、息を吐くたびに縮小していく感じが、した。俺は、この部屋が俺そのものであるということに気づいた。いや、どちらかというと、俺と部屋というふたつのものを隔てる薄い膜のようなものがはがれて、俺も部屋も今につながっているということに気がついた。
そう、気がついた。ずっとこの部屋にいたということにも気がついたし、他者の発言へのみずからの大小さまざまな動揺にも、気がついた。それらは順を追うのではなく、同時に俺の中に、――部屋の中に――あった。それらは現れも消え去りもしなかった。ただ、今とつながっていた。そして、同じように今につながった俺に、「存在している」ことに気がつかれたのだ。
俺は昔読んだヘルマン・ヘッセの小説を思い出した。変化が全てその場に形として残っていくようす、開く花の全ての瞬間が一度に見え、流れる水の全ての瞬間が一度に見えるようす、俺は真っ白な壁の間に、それを感じた。何も見えはしなかったけれども、じゅうぶんに感じた。俺を取り囲む正多角形の壁は、俺を中心にY軸で回転しはじめた。それらの壁が通り過ぎる一瞬一瞬が残像のようにその場に固着し、まるでホイップクリームを絞り出すように実体化した。生きているという観点から見ればそれは一瞬だが、それは《今》と繋がり、そのまま《永遠》に繋がっていた。
「落ちすぎや、帰ってこんけ」
男が俺の手を引っ張って、砂場の外に放り投げるように引き摺り出した。俺は肩を手で払いながら起き上がった。周囲の木陰で弁当を食べているサラリーマンは誰一人こちらのことに気が付かないようだった。
「落ちすぎや」男はもう一度言った。
「でも、ええ。明日からは一人で来てもええ、べつに俺がおらんくても取り残される心配はない。こっちの時間は、また別のものやから。気にせんでもええ。あっちは因果が順に起きるわけやなく、ただ、現在に接続されているだけやから」
俺が困惑して黙っていると、男は俺のライターで煙草に火をつけて、一息吐き出してから続けた。
「必要なのは、たまにそれを思い出してやるっちゅうことや」