田舎の結婚
作者: 沼熊
田舎でなら、結婚式をやってもいいと思った。一面の森に囲まれた限界集落、無人島、世界の果てまで見通せそうな砂漠のど真ん中、とにかくそういうところであれば。僕はどうしても、ありきたりな式――横浜かどこかの坂の途中にある結婚式場を貸し切って、数少ないゲストが皆ふらふらに酔っ払って、しかし式場のドアを開けると社会がすぐそこにある――そこで、周りから白い目で見られながら、ゲストたちが地下鉄の階段へと消えていく、というのはいやだった。僕はどうせならとことんまで遠くにいってしまいたかった。そのせいで誰も来られないというのなら、それでかまわない。
婚約は去年の2月ごろの話で、だから結婚式まではだいたい二年くらい間が開いたということになる。最初の一年は、お互いに結婚式のことは話題に出さないようにしていた。ひとつには、当時の僕たちはどちらも貧しくて、そんなことをしている余裕がなかったからだ。そのあと、妻の会社が金脈を掘り当てたか何かで――ぼくは今でも妻がなんの会社に勤めているのかを知らない――社員全員の給料が五倍ずつになって、それで金銭的な余裕が(妻の側にだけ)生まれた。後半の一年は、話を進めたがる妻と、それを渋る僕、ということになった。後半の一年の第一四半期がすぎたくらいのときに、僕は「びっくりするような田舎であれば」式をあげてもよい、と言いはじめた。
「それに、友達はひとりも呼ばなくたっていい。じゅうぶんな数のエキストラをよぼう」
それを聞いたとき妻は涙を流した。
弁明したいのだが、僕は妻に対してただ意地悪がしたいとか、困らせてやろうというつもりではなかったのだ。ただ、どうしても耐えがたかった。僕たちがどれほどうまくやっているかをただ周りに、そして自分自身に見せつけるために、高い金を払って、お互いの数少ない友達をかき集め、いっときのショウを行う、というのが。
その年のあまり暑くない夏が過ぎ去り、季節が冬に向かって進んでいくにつれて、不思議なことに、妻が僕の意見に同調しはじめた。もしかしたら妻も、見せびらかしの営みの馬鹿らしさに気づき始めたのかもしれないし、もしくは、どんなかたちであれ、とにかくこのままでは式を挙げるということ自体がうやむやにされてしまう、と危機感を感じたのかもしれない。とにかく、僕たちはA県の山奥の、杉林が切り開かれてできただだっ広い草原で結婚式を挙げることができるということを知った。そして、そこにはエキストラ百人つきのコース、というものまであった。一人一日当たり数千円で雇えるという計算だった。どんなところにも需要があるものだ。
それから、だいたい年が明けるくらいまで、僕たちはその虚偽の結婚式の準備に追われた。エキストラの百人を、僕側の関係者と妻側の関係者とに適当に二分した。そこにはお互いの家族役も含まれていた。ほんとうの家族の参加は、元からかなわなかった――僕の家族は僕のことを毛嫌いしていたし、妻の家族は健康上の理由とかで誰一人家から出ることができなかったのだ。それから、当日に皆に出すオードブルのしたくを僕がした。全員が着る服装の準備を妻がした。妻が選んだ衣装は、まるで東ドイツにとりのこされた小さな村の礼服、といった感じで、ばからしいサスペンダーやつるつるした先の丸い木靴がくっついてきていた。僕はしかし、それに対してとやかくいうことはやめて、妻の希望通りにした。
結婚式の前日、僕と妻は二人でA県市街地にある民泊ですごした。テレビでは、例年ではまだ雪が溶けきっていない時期だというが、それが嘘のように暖かく、ときおり北から冷たい風が吹いてくる以外はほとんど初夏の陽気だと言ってもよかった。僕たちは翌日への独特な緊張から言葉少なになっていた。だいいち、集まるはずの人間からしてひとりも知らないのだ。僕たちは旅行者向けになけなしの装飾が施された木造住宅でひとときとして落ち着くことがなかった。
翌日の朝早くに、迎えのバンがやってきた。運転手の他に、後部座席には衣装を担当するスタッフがいた。僕たちは妻が選んだ例の東ドイツに着替えた。何かの手違いでふたりともサイズが全く合っていなかった。
バンは、とんでもない山道を行った。途中で数回、崖から脱輪しそうになったほどだ。僕たちの不安をよそに、運転手はぎりぎりまで飛ばしたし、衣装係は絶えずにこやかに話しかけてきた。それはたとえば、政治の話から、映画や音楽の趣味まで多岐に渡った。音楽といえば、車内にはずっと東ヨーロッパの民族音楽のようなものが流れていて、それで余計に気が滅入った。僕は、はやくも田舎での挙式を提案したことを後悔し始めていた。
最終的にバンはひときわ濃い杉の木立を抜けた。そこは目的地の草原で、まるで自治会の運動会で使うようなテントがいくつも並んでいて、その中はパイプ椅子と支度をするわれわれのエキストラでいっぱいだった。バンはその間を徐行して、やがて停まった。
「みて」と妻がいった。「仮面」
われわれが雇ったエキストラたちが、テントの下で銀色の狐の仮面をつけていた。彼らが動くたびに、ところどころでそれがきらりと光る光景は異様であった。
「なんのマネだろう?」と僕は呟いた。
「もちろん、エキストラは素性を明かすわけにはいかないでしょう?」と衣装係がにこやかに答えた。「あの狐たちは一般スタッフです。新郎様の家族役は赤銅色の兎の仮面を、新婦様の家族役は水銀色の狸の仮面をつけております」
少し離れたところには、覆いのついたテントが二つ横並びになっており、そこにはたしかに、兎と狸の面をつけた数人が出入りしていた。全員が黒いスーツを着た一般スタッフと違って、性別がわかりやすい服装をしていた――さっぱりとしたドレスの兎や、和装の狸などがいた。
「服装がばらばらだ」と僕は言った。「世界観がめちゃくちゃじゃないかな」
「全然手伝わなかったくせに」と妻が言った。「準備も、なにも。文句ばかり」
僕が何かを言う間もなく、妻はバンを降り、激しくドアを閉めて狸のテントの方へと向かっていった。親族用のテントには、中で化粧直しができるように不透明なビニールの覆いがついていた。そちらに向かって、大きすぎる東ドイツの木靴がかぱかぱと動いていく。
「困ります」衣装係が僕に向かって言った。「そろそろメイクアップをするタイミングだ。奥様を連れ戻してきてください」
僕はゆっくりとバンのドアを開け、草原の上に降りた。見た目とは裏腹に、草はかなりの露を含んでいるようで、靴越しにもその冷たさが少しだけわかった。僕は狸のテントのほうにゆっくりと歩いていった。出入りしていた二人連れの蝶ネクタイの狸が少し止まってこちらをじっとみた後、またテントの中へと入っていった。
彼らに続いて覆いをめくり、テントの中に入っていくと、そこは外から見るより何倍も大きな空間だった。異常といってもよかった。ちょっとした体育館ほどもあり、長い机が三列並んでいる。そのすべてが、狸の仮面をつけた人間でいっぱいだった。彼らは談笑したり、化粧直しをしたりしており、すでに食事をとっている者もいた。僕は妻の名前を呼んだ。周りにいる狸の仮面たちが、僕の方を指さしてなにかひそひそと話している様子が見えた。
妻は仮面の集団に取り込まれてしまったのかもしれなかった。それで、僕は身体的特徴から妻を探し出そうとしたが、なにも思い出せなかった。背が高いのか低いのかさえ、考え直してみれば定かではなかった。まるで、さっきの一瞬で、妻の姿が記憶の中から逃げ出してどこかにいってしまったかのようだった。イメージのなかで、あの大きな木靴だけが、ぱたぱたと揺れていた。
「惨めな…」すれ違った狸の仮面からそのような単語が聞こえた気がしたが、確証はなかった。
テントの中を端から端まで歩きながら、テントの中には狸の仮面だけではなく、いつのまにやら狐も、兎もたくさんいることに気づいた。まるでテントそのものから人が湧き出しているかのように、状況はますます混雑し、僕は前に進めなくなった。人混みに押されながら、僕は次から次へとやってくる周りの足元を見ていた。大きすぎる木靴を探した。近くにやってきたら、すぐに捕まえるつもりで。