猫のゆりかご(仮)
作者: 沼熊 1. わたしが東北地方のとある大学に講演者として招待されたのは、年が明けてまもない、雪の降り積もるころであった。ただでさえ悪天候で新幹線のダイヤが乱れるなか、前を走る車両が獣と衝突したとかで、わたしの乗る車両は二駅進んでは止まり、三駅進んではまた止まった。わたしは車両内の喫煙所で三本立て続けにラーク・クラシックマイルドに火をつけ、「マッド・サイエンティストが自分の身体で煙草に関する人体実験を行っている」という乗客からの通報を受けた車掌に摘まみ出される羽目になった――そう、とにかく、当時は新幹線にも喫煙所があったのだ。そのあとの歴史はご存知のとおり。まず、新幹線の喫煙所が廃止され、そのあとで、わたしがニコチンなしに生きていけるようになった。 ところで、わたしの研究内容は当時としては画期的であった。いまなら誰もが中学校で習う常識だ。 世界のありとあらゆるものを細かく分解していくと、最終的にはとてもとても小さいミニチュアのあやとりになる。 そして、 あやとりの紐のねじれかた、それに交差のしかた次第で、この世界の<サブクオーク>――つまり原子よりもクオークよりももっともっと細かい物事の基礎だ――は六種類に大別できる。 大学がわたしを呼んだ名目は、この理論――当時は名前がついていなかったが、その後わたしと共同研究者の名前をとって<ゴレツカ=下村=ホイルンド=リプニツカヤ理論>、と呼ばれることになる――の最先端たるわたしが、何も知らない学生たちに初学者向けの講義を行うためということになっていた。しかしわたしは、彼らの真の目的にも薄々気がついてはいた。 2. そういうわけで、朝早くに東京を出たのに、目的地に着いた頃には陽が落ちかけていた。駅の改札を抜けるとコンコースにビジネス・ホテルのフロントが直結されていた。それはまるでこの県唯一のホテルだと言わんばかりの風采であった。入り口の上に、 ホテル・エヴァネッセンス と金の飾り文字で刻印がしてある。わたしが入り口に近づくと結びボタンのカーキ色のコートを羽織った坊主頭の男が出てきて会釈した。 「兵役上がりかね」わたしは失礼なことを言った。 「めっそうもない、閣下」と、坊主頭の男は嫌味っぽく言った。おそらくこいつはガリレオもニュートンもアインシュタインも知らないに違いない、とわたしは思った。 「喫煙所はあるかね」 ...