家族と親戚による恒常的な共同社会
作者: 沼熊
数日間厄介になっても良いかと甥から電話があったのは、私がスーパーでぱっとしない遅めの昼食を買い込んできた直後の事だった。また父親と喧嘩した――その声の調子から、今回はいよいよ決定的かもしれないと思った。ささいなことで喧嘩をしては私の家に転がり込んでくる甥のせいで、私と兄との関係性は微妙に冷え込み、甥は私とさほど歳が離れているわけではないのに――そうは思っていたが、改めて勘定してみると七年か八年の違いはあった――家系図上の位置が少しだけ上下にずれているというだけで、このような彼のささやかな反抗には毎回私が責めを被るような感じがしたものだ。もちろん兄は私にまっとうな親類の立場を期待した。しかるべき叱責を加え、兄に代わって数日分の教育を施し、笑顔でまた家に送り返す、というように。しかし実際には、甥と私は家族というよりもむしろ友達のような関係だったし、なによりも私自身ががそのような余裕からは程遠かった。
「なんとかならないか」私は言った。「そろそろ俺のほうがSに酷く叱られるんじゃないかって気がするよ」Sというのが、私の兄の名だった。
「三日くらいで帰るから。頼むね。鍵の場所はわかっているから」
「今は家にいる」
「よかった。じゃあなおさら都合がいい」
「お母さんはなんて言ってる」
「いつも通り。行儀良くするのよ、って」
私は電話をしながら部屋の中を歩き回った。彼の母親はいつでも私のことを無料の学習塾か何かのように思い込んでおり、それは不快ではなかったが、母親としてまっとうな態度なのかどうかはわからなかった。私との関係性は兄に比べると良好で、何かの折に息子がお世話になっているからと、私の家に様々なお礼の品を送ってくるのは彼女だった。この前に貰った調味料のセットは一つも封を開けずに箱ごと食器棚の上に放置してある。
話が終わると、私は歩き回るのをやめ、ダイニングの一角に置かれた古いオーディオセットの前に立った。それからターンテーブルの埃を拭き取って古いロックのレコードをその上にのせ音を確かめた。ここ数年はといえばレコードをかけるのは甥が家に来た時ばかりだった。
三十分ほどしてサッカー部の緑色のジャージを着た甥が玄関に現れた。甥は玄関に大きな白のエナメルバックを放った、その中にはいつもよれよれの洋服と教科書やノートが詰め込まれている。重い玄関のドアが倒れ込むように夕暮れの光をとじた。私は今になって午後六時の明るさを発見した。
「歓迎のハグとかはないの」
「お前が嫌だろう」
春にもかかわらず甥は日焼けし毎日の活動量を誇示していた。それは私に対する個人的な攻撃のように感じられた。強く硬質な制汗剤の匂いがしてまるで玄関の壁という壁を削りとってしまいそうだった。私は締め切った居室に彼を案内し、彼のエネルギーを煙草で汚れた空気の中に閉じ込めた。
「どうってことないよ」私が何も言わないのに彼は言いまた繰り返した。「どうってことない」
「何が聞きたい?」
「え?」
「音楽でも聴こう」
「ベートーヴェン」彼はふざけて言った。
「レコードは無いが俺がMIDI鍵で弾いてあげようか」
「最悪だあ」
彼はソファーに座って携帯電話の小さな画面をずっと眺めていた。それを見ながら私は本当にピアノを聞かせてやろうかと考えていた。
「まだピアノ練習してる?」画面から目を離さずに甥が聞いた。
「してるよ」
「珍しい。なんだって続いたためしがないじゃない」
「ピアノはモテる」
「じゃあ俺も習おうかな」
「費用は誰が出すんだ」
私は痛いところを突いたので、甥は画面から目を離し、私の方を見た。
「俺はもういよいよアイツとはやっていけないかもしれない」
友達として見れば甥と私の兄がうまくやっていけるはずもないことは明白だった。とはいえ私はその微妙な立場のせいで無責任にどちらかに肩入れすることは不可能だった。優れた人間であればこういったときに何か例え話を出して甥を説き伏せることができるのだろうか。一本の矢はすぐに折れるが三本まとめればなかなか折れない、とかなんとか言って三兄弟の団結を促したという説話を私は思い出した。それからそれを言ったのが誰だったのかぼんやりと思い出そうとした。
「宿題でもしていな」私は考えていたことを持ち出す代わりにこう言った。これだけでも親族としての義務は最低限果たしているように思えた。
「アイツみたいなことを言うね」
「ちゃんと勉強をしていないと俺みたいになるぞ」
「Yは」甥は私のことをいつも関係性でなく名で呼んだ。「俺が勉強としんどいことから逃げるためにここにきていると思ってるんでしょう。そう思われていることはわかってるんだ」
「ろくに働いていないから」わたしは自嘲的に言った。
「でも俺は、Yが例えばコンサルや投資銀行勤めで激務だったとしてもここに逃げてくると思うよ。俺が我慢できないのはなにかを頑張るとかそういうことじゃない、本当に親との関係がよくないんだ」
「コンサルだのって、どこで知ったんだ、そんな言葉」
甥は、俺はもうそんなに子供じゃないんだよ、というような顔をした。私はこの数年間で新しく覚えた単語が一つでもあるだろうかと考えた。私はもしかしたら自分自身の時間を少しでも進めるために、たまの甥の家出を心待ちにしているのかもしれなかった。私はこっそりとレコード棚に並ぶタイトルの背表紙を目で追っていたのだがそれもやめてしまった。
その日の夜遅くにSから――つまり私の兄であり甥の父親から電話がかかってきた。こうなることはわかっていたので、私はあらかじめ甥を奥の和室に閉じ込めておいた。彼からすれば、すぐにだれと話しているのかはわかってしまうだろうし、三者共に気持ちの良い会話ではないだろう。
「あいつぁ元気か」
Sの第一声は、しかし、拍子抜けするほどに呑気だった。それは実の父親からというよりも、数年会っていない親戚が電話をかけてくる時の挨拶にふさわしい。
「ちゃんと勉強はさせているよ」
「そればっかり心配していると思っているんだな」表情が透けて見えるくらいにやついた声だ。「よかった、よかった。手間をかけてすまんなあ」
「酒でも飲んでいるのか」
「どうってことねえよ」Sは繰り返した。「どうってことねえ」
父と子だな、と思った。
「すまんが、そちらから学校にはいかせてやってくれ。学校を嫌がっているわけではないとは思うが」
「そうは言ってたと思う」
「俺の悪口を言っていたか」
少しだけ間を開けて俺は言った。「いや。少なくとも具体的なことは、なにも」
「そうか。あいつは幸せ者だなあ。いまどき家族と喧嘩したからって同じ街に逃げ込む先がある子供なんていねえからなあ。夫婦喧嘩でもしたら、俺もお世話になるよ。いやあ、冗談だって……」電話の声が遠くなった。「……あとはなにか心配事はないか。すまないな、迷惑をかけて」
Sは幾度も謝った。甥が家出をするたびになにか俺に責任があるように突っかかってきていたいつもの彼とは別人のようであった。私はほっとするというよりもわずかばかりの不安を感じた。この家族になにが起きているのか、私からはまったくわからなかった。
「あいつに言ってやってくれ。お前は面倒見てくれる叔父がいて幸せ者だと」
「そんなこと俺から言えるわけないだろう」
「いや、あいつは幸せ者だ。お前のおかげだな」
「やめてくれ、そんなことは」
私はSが酔っていると確信したので、会話を切り上げて電話を切った。冷蔵庫が時々唸った。このようすだと甥のいる和室まで私の声が――ひょっとすると電話の向こうの声までも――聞こえてしまったのではないかと思った。私はゆっくりとダイニングの椅子に座った。いまどき同じ街に逃げ込む先がある子供なんていない、と兄は言った。兄はそれを幸せなことだと言った。仮に私になにか我慢ならないことが起きたら、そのときは彼らの家に逃げ込むことができるのだろうか、と私は考えた。具体的な例をいくつも挙げてみた。考えれば考えるほど現実的ではなかった。私は共同体を欠いていた。
しばらくして甥がダイニングに出てきた。我々の会話を聞いたような素振りは何一つ見せなかった。
「ねえ、俺がもしもお前みたいに何かから逃げたくなったら、どこに逃げればいいと思う」と私は聞いた。
「さあね。考えたこともなかったなあ。でもYは、鬱陶しい家族が一人もいないじゃん。家から逃げ出したくなることなんて、あるの」
「Sの家に俺が逃げていくってのはありかな」私は甥の質問には答えずに言った。
「まさか。うざくて仕方ないと思うよ。ひょっとして俺が来て迷惑してる?」
「いいや、そんなことはないよ」
「本当に」
「でも、何からかはわからないけれど、逃げ出してどこかに行きたくなるときは、ときどきある」
「よくわからないなあ」
甥はそういうと自分が飲んだジュースの容器を――彼を迎え入れるたびに私がしつこく指示してきた通りに――洗い、キャップとラベルを分別した。私はそのやや猫背になった後ろ姿を見ながら伸びをした。背中の骨が大きな音を立てた。
「俺は一人で生活していけたらそれでいい」と甥が言った。そのあとで、でもここには時々来るかもね、と付け加えた。それから透明な容器を乾かさないままに資源ごみの袋に投げ入れた。それが元々入っていた容器にぶつかって大きな音を立てた。たしかに甥は恵まれているのかもしれなかった。そして私がそれに与するところが大きいのかもしれなかった。彼が部屋に戻ったあとで、私は彼が投げ込んだ小さな容器を袋の中から拾い出し、キッチンの窓際に立てかけておいた。