スーパービュー踊り子
作者: 沼熊
「伊豆半島だけが遅れてやって来たんだ」と男は言った。
「それはちょうどユーラシア大陸におけるインド亜大陸のようなものだ。だからそこには、とくべつなエネルギーがあるんだ。わかるかい」
ここ数年のうちでもっとも奇妙な体験だったと言わざるをえない。貸し切られた広い料理屋で、僕たちの真向かいに座った男は、こんこんと、伊豆のスピリチュアルなパワーについて語り続けていた。僕の彼女は、それを微笑みながらきいている。そして、彼らはときどき僕にはわからない地名をいう。まるで地名そのものに呪術的な効果があるように、それはいろいろな言葉をのみこんで膨張していく。
「いったいなんなんだ」男がトイレのために席を立ったとき、僕は耐えかねて彼女にきいた。男は五杯目のグラスを空にしていた。僕たちはそれぞれ二杯目の途中だった。
「楽しいでしょう。彼は百パーセントほんもののことを言っている」
ほんもののこと、という不自然な言い回しがなおさら僕の気を削いだ。酒が強くない彼女は頬を紅潮させており、僕はそれがなんとなく嫌で黙っていた。そうしていると、店全体に僕のきいたことがない地名が飛びかっていることに気づいた。僕はひとりで外国に置き去りにされたような感じがした。
「たのしくないの」彼女がきいた。
「なんの話をしているのか、さっぱりわからない」
「うそお。あれはわかったでしょう」と言ってまた地名をいう。それに呼応するように隣のテーブルでもその土地の話題が始まる。
「やめてくれよ、ほんとに。なんだか呪文みたいに聞こえるんだ」
「そりゃそうでしょう。さっきのあの人が言っていたこと、きいていなかったの」
「なにが」
「伊豆半島だけが、遅れてやってきたんだから、そこにはとくべつなエネルギーがあるの」
彼女はあの男が言っていたことを、当然のようにそっくりそのまま、正確な語彙で繰り返した。「地名にだって当然」
「ばかばかしい」
「そんなことを言わないの」
彼女はあまり気分を害したようには見えない。
「とにかく、そんなに悪い人たちじゃないんだから」
男が戻ってくるのが見えたので、また地名の連鎖反応を引き起こされる前に、僕は先手を打った。
「最近『伊豆の踊り子』を読みました」
すると彼は僕がなにかひどい失言をしたような顔をした。
「あんなものはお読みになんないほうがいいな」と彼は言った。彼女のほうはカウンターに逆さ吊りになったワイングラスを眺めている。ひとつひとつ眺めている、といった感じで。
「あの小説は、新入りの女将をいびる描写がとくにひどい。伊豆であんなことは起きないんだ。そこのところがまったくわかっていないと言わざるを得ない。川端康成か、ノーベル賞をとったのか知らないが、伊豆のことをなにひとつわかっちゃいないね」
それは『伊豆の踊り子』ではなく、新潮文庫版に一緒に入っていたなにか別の短編だったはずだ、と僕は思った。だから彼は百パーセント的外れなことを言っている。しかしそれがなんというタイトルの短編だったのか、僕には思い出せない。
「そんなくだらない小説を読んでいないで《スーパービュー踊り子》にでも乗るが好い」
「《スーパービュー踊り子》!」彼女が言った。
「なんですかそれは」
僕は新入りの女将をいびる描写のある小説のタイトルがなんだったかをずっと思い出そうとしていたので、その隙をつかれて新しいマジックワードが飛び出してきてしまったのだ。この固有名詞もすぐ店内に伝播していってしまうだろう。僕は座席の下でスマートフォンを取り出し、それを調べた。有名な観光列車だが、二〇二〇年に運行を終了しており、《踊り子》と《サフィール踊り子》にリニューアルされたということだ。
「踊り子」と僕は小さな声で言ってみた。「サフィール踊り子」
あまりにも、魔力にとぼしい。それから三分の一ほど残っていたビールを飲み干して、スーパービュー踊り子、スーパービュー踊り子、と二度唱えた――心の中で。声には出さなかった。