東北

作者: 沼熊

 冬になればまるごと雪に埋もれてしまうような、山あいの小さな工業団地のすぐそばに、「スパロウショップ」という奇妙な名前の商店があった。そこの店主は、二十年来その気難しさで知られており、ことに妻を亡くしてからの十年間は誰とも口をきかないことで有名になっていた。店内にはいつでもノイズ混じりのラジオの音が満たされてい、それはまるで昆虫を絡めとるぶよぶよとした透明なゼリーのように、どことなく客の身動きをぎこちなくさせた。それをなんとか掻いくぐってレジの前に辿り着いたとしても、そこには、いついかなるときでも表情を無くした主人と、床に伏せ涎を垂らしながら黄色い目でこちらを睨むイングリッシュ・コッパー・スパニエルが待ち構えているのが常だった。それで穏やかな大多数の者はこの商店を気味悪がり、生活の糧は安い寮食でまかない、そのほかの買い物には日に一本あるかないかのバスで郊外の商業施設へと向かうのだが、それでもこの店は一部の者――とくに煙草や酒をやる者からは重用されていた。なにしろこの地域には、商店というものがほかにひとつもなかったからである。

 今年から寮に住み始めたIは酒も煙草もやらず、そのことで周囲の者によく揶揄われていたが、それでもあの店に通わなくて済むのは、彼のここでの生活の数少ない美徳のひとつだった。いったい、ほかのことすべてがひどいありさまだった――なにしろ彼は南国で育った十代だった。ここに移り住んだとき、彼の人格とそれをつつむ外壁は、まったく新しい土地の人間として成長を始めるには出来上がりすぎており、かといってあらゆるものから心を閉ざすにはやや水分を含みすぎていた。

 寮にはTという相部屋の男がいた。Tはことあるごとに「俺はこんなところからさっさと出て行きたいし、もう働きたくもない」と言った。Tの実家はこの工業団地から車で一時間ほどの海沿いの街にあり、ひと月かふた月に一度は連れ帰り甘やかすために家族が迎えに来るのだった。彼の父親は小柄で、無口で、役所で働いており、家族の中で唯一運転ができたが、車に乗る時にはいつでも酒を飲んでいた。彼の母親は物腰が柔らかく、気前がよく、いったい脳みそというものがどこかにくっついているのだろうかと疑うほど意志のない人に見えた――または、実際にそうだった。Iにとっては最悪なことに、両親とも信じられないくらい良い人たちで、したがって彼がこの一家に対してそれとなく抱いていた嫌悪感をはっきりと言葉に表すのはむずかしい。

 Tがここでの労働について、あるいは環境について文句を垂れるたびに、Iは、つべこべ言わずに、黙って働けよ、と言い(それは多くの場合、明るい光の差し込む寮の部屋で、ふたりとも静かに何か無益なことにかかずらっているときだった)、そしてそれを聞いて、Tはいつでもヘラヘラと笑うのだった。Iの必要以上にとげとげしい発言には、おおかた家族というものに対する妬みが込められていたのだが、強く出られる相手は身の回りでTしかいなかったのだし、そういう意味ではTこそが家族同然であるという事実が気恥ずかしくもさせた。

 Tは酒も煙草もやったのだが、過保護な母親から毎週のようにそれらの物資が供給されたおかげでスパロウショップのお世話になることはほとんどなかった。彼は寮食さえもほとんど摂らず、たいていは母親からの好物で偏食していた。それで食事の時間になると、Iは多くの場合ひとりで食堂に向かい、労働者たちの下品な会話に背を向け、ひろびろとした窓に向かう横並びのカウンター席で孤独に食事を摂るのだった。毎日三度外を眺めているおかげでIは同僚のだれよりも景色の変化に敏感になり、そのようにして、生まれて初めての雪を見た。


 ある日の朝食の席で、Iのすぐ隣に見知らぬ労働者が座った。

「もう冬んなら。メシはどうすんだ」

「ぼくはずっと寮食ですね」

 労働者は白髪を短く刈り込んだ大柄な男だった。ここからほど遠くない地域の生まれであることは一目で察しがついた。

「冬なったらんなもの出ねわな」

「寮食がですか」

「だ。今年からだ。自分で面倒、みなけらならんな」

 労働者は優しい表情を浮かべた。と、すくなくともIは思った――目は水分を失った皮膚の間からただの切れ込みのように見え、実際そこから感情を読み取ることはかなり難しい。何ものをも寄せ付けない気質とはちがい、何年も厳しい冬を耐えるために、おのずと外界とのナイーブな接点が奥へ奥へと引っ込んでいった結果であり、その成り立ちを思うに嫌いになることはできない類の性質だ。

 そこから二人は何も言わずに食べ続けた。外のロータリーにゆっくりとバスがやってきて、買い物袋を下げた黒いコートの一団を降ろしていった。みな足元だけを見ながらのろのろと食堂の窓の前を横切っていき、半透明のビニール袋に酒瓶が二、三見てとれた。

「俺ぁちょっとのあい、うち、帰るんだ」

 バスがまた道路に出ていくのを眺めながら、労働者が言った。食堂の窓ガラス越しにもわかる大きなエンジン音がした。

「いま、息子ぅいるから」

 労働者は控えめに笑った。息子の帰省が嬉しくて、誰かに言いたくてたまらなかったのだろうと、Iは思った。彼の息子はおそらく自分と同い年か少し上くらいだろう。彼はそれ以上のことを詳しく言わなかったし、おまえは帰省しないのかとも聞いてこなかった。ただ自分の言葉が伝わったことを確認し、明るい表情で頷くばかりだった。

「普段はここにいないんですね」

「だ。都会いるんだ」

「いいなあ」

 Iは儀礼的に言った。ここよりは幾分気候がましだろうか、くらいには考えた。

「なんの仕事をされてるんですか」

「うん、それはようわかんねな。とにかく毎日忙しくやっとんだ。それに価値がある。忙しくやってねば、生きてる価値なんかねえ」

「うちの相部屋の男は働くのを嫌がります。なんとか言ってやってくれないといけませんね」

「そうか。だな」労働者はニヤッと笑った。「同い年くらいか」

「そうですね」

「だら、まだマシだ。息子もここで働いとったんだ、今の君くらいの歳のときにはな。んでも、毎日がつまんねからつって、全然まともに仕事なんかしないわけよ。うん、忙しくなかったな、君くらいの歳のときにはな。それからふらっと都会いって、ちゃんと働きはじめたな。都会行かないとダメな、やっぱり若いもんは。ここにいたって先はねえし。どんどん仕事は外国人にとられるし、な」

「それは同じですよ。どこにいっても」

「そうか」労働者は我関せずというような雰囲気で言った。「ようわかんねな。君はここに残りたいか」

「まだ、わからないです」

 本当はどこにだって残りたいと思う、ここでも都会でもかまわない、どこか落ち着くことができる場所であれば、どこでも。


 すぐにほんものの冬が来て、あの労働者がいう通り寮食は閉鎖された。Tによると、今年から就任したけちな経営者が除雪や暖房に費用をかけたくないというので、食堂の冬季営業を取りやめたということだった。労働者たちの間にはちょっとした混乱が生じた。みながインスタント麺や、塩漬け肉や、いつのものかわからない菓子パンなどで飢えをみたすために、毎日自室とスパロウショップを往復する羽目になり、数人が急な客足の増加で気が立った店の犬に噛みつかれて病院送りになった。

 Iはこの戦いの序盤を、Tから事情をきいた彼の母親からのおこぼれにあずかることによってうまく回避した。Tの母親はいたって単純な優しさからTへの食料、酒、煙草の仕送りをすべて二倍にした。彼女はそういう人だった。それで相部屋の二人は部屋で毎食同じものを食べ、Tの酒量は二倍に増え、煙草の箱だけが週を追うごとに部屋に積み上がっていった。

 とはいえそれも長くは続かなかった。ある二月の日に、Tは突然、一ヶ月ほど休暇をとって実家に帰る、と言い出したのだ。

「おい、働けよ」Iの言葉にはふだんよりいくぶん実際的な意味が込められていた。

「わりいなあ、きみのメシが懸かってるんだもんな」

「一ヶ月も突然休めるものか。寄宿学校かなにかじゃないんだから」

「だって今休まなきゃいつ休むっていうんだ、ボロ雑巾みたいにこき使われているのに」Tは言った。「どっちみち労働者の数がふえすぎて、意味のある仕事なんてもともとないにも等しいんだ。皆を食わせるために無駄な仕事がいっぱい増殖しているだけだろう。この寒さじゃ機械だってろくに動きやしない」

 その俯瞰的なものの言い方にはどこか腹立たしいところがあった。それからTは思い出したように言った。

「それに、見たか、昨日からの留学生の群れ」

「ああ」

「今年は特に多そうだ。あれのおかげで休暇がとりやすくなったというのは、たしかにあるな。あんなポンコツたちを世話するんだぜ、われらの上長たちは。それに加えて俺たちの世話なんて。面倒のタネは少しでも取り払ってやるのがいい」

 昨日スーツケースをひいてやってきた集団は、皆が皆、本国の競走で落ちこぼれた奴らばかりだった。優秀な者、野心のある者は皆都会に行くのだ。

「まあ、中には友達になれそうなやつもいるだろう」Tは冗談とも本気ともつかない言い方をした。「お前もちょっとは外に出た方がいい。留守は頼んだ。俺のベッドには入るなよ。残ってる煙草は欲しければ好きに吸ってくれ」

 翌日の深夜、Tは両親に連れられて帰っていった。彼の父親はいつもにまして目の焦点があっていないように見えたし、母親はまるでIを食わせ続けることが当然のことであるかのように謝ってきた。Iは駐車場まで彼らを見送りにいき、そのあとでひとり部屋に戻って、訳のわからない調べ物をしたり、煙草の箱を観察したり、色々な形に積み上げたり、またくずしたりした。窓の外から大きな笑い声と、合間に異国の言葉が叫ばれるのが聞こえてきた。Iは何万キロも移動したかのように疲れ、ついさっきまで言葉が通じる奴がこの部屋にいたことすら不思議だった。一方で本当に長い距離を旅してきたものたちはすぐに集団を形成しているのだ。連鎖的なとりとめのない考え事をしている間に空が白み、雪の色は対比的に灰色に変わっていくのが窓越しに見えた。Iはコートを着こんで、外に出た。

 しばらく歩いてから、スパロウショップの表を回って喫煙所の方に回り込むと、大きな灰皿が倒され、そこらじゅうにゴミが散乱しており、店の主人が一人で片付けをしていた。

「早起きやな」店の主人はこちらに気づくと、無表情で言った。何年も奥にしまい込んであったような言葉の響きだった。Iは彼が灰皿を起こすのを手伝った。側面には蹴られたようなへこみがついていた。

「留学生や。今年の留学生はあかん」

「普段はもっとましですか」

「まあな。君も新入りか」

「はい」

 風にあおられて雪が色々な方向に流れ、一部は半透明なパーティションにくっついて、しばらくその形をとどめた。店の主人は煙草に火をつけて、それをくわえたままゴミを回収しはじめた。Iは少し遠慮し、自らも煙草を取り出した。Tがやっていたように、片方の手で風をよけながらライターの金具を指で擦ったが、火は弱々しい音を立ててすぐに消えてしまう。

「心配には及ばん。誰にでも神様っちゅうもんがおら」

 Iは店の主人の方を見たが、彼はすでにまた腰をかがめて下を向いており、それをIに向けて言ったのか、それとも自分自身に言ったのか、はっきりしなかった。Iの煙草にやっと火がつき大量の煙が体に流れ込んできて咳き込んだ。ひりひりと焼け付くような味が目までしみてくるのを感じながら、Iは、店の主人が、なんでもいい、まっすぐこちらを見て、さっきのようななにかを言ってはくれないかと、心のどこかで期待していたが、そんなことは起きなかった。彼はただ、今年の留学生はあかん、と繰り返しながら、うつむいて自分の仕事を続けていた。