投稿

2月, 2024の投稿を表示しています

東北

作者: 沼熊  冬になればまるごと雪に埋もれてしまうような、山あいの小さな工業団地のすぐそばに、「スパロウショップ」という奇妙な名前の商店があった。そこの店主は、二十年来その気難しさで知られており、ことに妻を亡くしてからの十年間は誰とも口をきかないことで有名になっていた。店内にはいつでもノイズ混じりのラジオの音が満たされてい、それはまるで昆虫を絡めとるぶよぶよとした透明なゼリーのように、どことなく客の身動きをぎこちなくさせた。それをなんとか掻いくぐってレジの前に辿り着いたとしても、そこには、いついかなるときでも表情を無くした主人と、床に伏せ涎を垂らしながら黄色い目でこちらを睨むイングリッシュ・コッパー・スパニエルが待ち構えているのが常だった。それで穏やかな大多数の者はこの商店を気味悪がり、生活の糧は安い寮食でまかない、そのほかの買い物には日に一本あるかないかのバスで郊外の商業施設へと向かうのだが、それでもこの店は一部の者――とくに煙草や酒をやる者からは重用されていた。なにしろこの地域には、商店というものがほかにひとつもなかったからである。  今年から寮に住み始めたIは酒も煙草もやらず、そのことで周囲の者によく揶揄われていたが、それでもあの店に通わなくて済むのは、彼のここでの生活の数少ない美徳のひとつだった。いったい、ほかのことすべてがひどいありさまだった――なにしろ彼は南国で育った十代だった。ここに移り住んだとき、彼の人格とそれをつつむ外壁は、まったく新しい土地の人間として成長を始めるには出来上がりすぎており、かといってあらゆるものから心を閉ざすにはやや水分を含みすぎていた。  寮にはTという相部屋の男がいた。Tはことあるごとに「俺はこんなところからさっさと出て行きたいし、もう働きたくもない」と言った。Tの実家はこの工業団地から車で一時間ほどの海沿いの街にあり、ひと月かふた月に一度は連れ帰り甘やかすために家族が迎えに来るのだった。彼の父親は小柄で、無口で、役所で働いており、家族の中で唯一運転ができたが、車に乗る時にはいつでも酒を飲んでいた。彼の母親は物腰が柔らかく、気前がよく、いったい脳みそというものがどこかにくっついているのだろうかと疑うほど意志のない人に見えた――または、実際にそうだった。Iにとっては最悪なことに、両親とも信じられないくらい良い人たちで、したがっ...