猿のシェイクスピア

作者: 沼熊

 廃墟のようなレンタルビデオ店の横を抜けて、地方都市へとつながる国道へ出た。山のほうへ近づいていくにしたがい、並列する車も、交差する車も徐々に減り、信号が赤だというだけでひっきりなしの短い足止めを余儀なくされていることが疎ましくなってきた。大都市から越してきたばかりの目にとって、この街の宵闇は普通よりも濃いような気がした。それは単に街灯の数が足りないというだけでなく、なにか民俗学的な事情の絡んだ深遠な原因があるのではないかと思わせるほどであった。この穏やかでない着想は、助手席の彼女が苦しそうな声を出して目を覚ましたことによって中断した。

「また夢を見てた」俺が何も言わないうちに彼女がそういった。「引っ越してから悪夢ばかり見るんだよね、ほんとうに」

 どこか近くに落雷があるらしく、ラジオから流れる歌謡曲は雑音に塗れている。今回に限ってはそれが悪夢の原因かもしれない、と俺は一応言った。

「この曲知ってる」彼女はまた別のことを言う。

 聴いていたいかどうか、俺は尋ねてみる。どうして、と彼女が言う。ノイズだらけで聞いてられないから、別の局にするか、なんだったらラジオを切ってしまってもいい、と言うと、彼女はAMのプリセットを順番に回して地方のニュース番組に切り替えた。そのあとすぐにトンネルに入ったので、電波は途切れ、同時にノイズもなくなった。ライトがすごい速さでひとつずつ飛んできて、超音速で水のなかを飛んでいるような空気の振動が長く続いた。俺はトンネル内の歩道に、自転車を押す男を見た。

「こんなところを歩いている」その男を抜き去ったあと、彼女が小声で言った、まるでその男にきこえはしないかと恐れているかのように。「パンク?どうしちゃったのかな」

 うーん、と曖昧に答えた。蝙蝠のように真っ黒な男だった。とぼとぼと、オレンジ色の光のなかを出たり入ったり。彼はトンネルの外ではきっと、闇にとけこんでしまうのだろう。やがて光が消え、ラジオの音が戻ってきたかと思うと、またすぐに次のトンネル。ふと彼女を見ると、また浅く眠り始めていた。顔が明るくなったり暗くなったりを繰り返す。出口付近でアンテナはようやく地方のニュースを拾ったが、先ほどよりもノイズが頻繁に、ひどくなっていた。俺はラジオのスイッチを切った。

 俺も、彼女も、田舎の出身だったから、都市の生活から距離を置くことにはさほど抵抗がないものと高を括っていた。ところが彼女は、俺が想像していた以上に都市生活に浸透しきっていたのだった。重要なことに、彼女は自分がまだ何ものかであると信じていた。ものを書く仕事はどこでだってできる、と俺は言った。住む所を変えることが彼女の多くを奪うということに、俺は余りにも無頓着だった。まるで農園から苗を引っこ抜いて裏庭に無造作に植え替えたように、彼女は区画整理されて定められた取り分を失って混乱していた。しかし少なくとも、それを直接俺に伝えてきたり、態度にそれとなく示したりといったまねはしなかった。引っ越しの前後ではっきりと変化したのは彼女の描く文章だけだった。俺が好んだはりや瑞々しい感じが失われ、自分が何ものかであるという危うい自覚だけがぱんぱんに膨れ上がっていた。俺はぞっとした。

「静か」いつのまにかまた彼女が目を覚ましている。

 カーブが続くから寝ていられないよね、というと彼女は笑って、でもあなた運転はけっこうじょうず、という。この車からはまだかすかに新車の匂いがする。俺は車線のできるだけ外側からカーブに入り、最も角度のついたところで内側を走り、カーブの出口で慎重に外側へと戻っていく。それを繰り返す。ときどき陰から対向車があらわれるが、こちらの姿を見つけると恥じらうかのようにライトを下げる。それ以外に人の気配はない。ところどころ好き放題に荒れた建物が見えるばかりだ。かつてはドライバー向けの商店だったのだろう。トンネルの中で見た、あの蝙蝠のような男の目的地がふと気になったが、それをとりたてて車内の話題にはしなかった。代わりになにか聞きたい音楽はあるかと俺は尋ねた。彼女のことを気遣っているような響き方をしたかも知れないが、むしろ自分自身がこの沈黙に耐えかねた。

「何か話して欲しい」

 運転に慣れないから難しい、と俺は冗談っぽく言った。それは嘘ではなかった。

 それで彼女が話題を持ち出した。猿に無限回キーボードを叩かせると、その中にはほぼ百パーセントの確率でシェイクスピアの『ハムレット』が含まれている、という話だった。彼女はそれを聞いてどう思うかと俺に聞いた。俺は恐ろしいと思う、と答えた。どうして、と彼女が聞いたので、永遠にキーボードを叩き続ける猿を想像するのが恐ろしいんだそいつの気持ちになってもみてよ、と答えると彼女は笑った。山道も終わりが近く、車は街の様子が見下ろせる坂に差し掛かった。しょぼくれた光が点々と散っていた。絢爛な大都市を知ってか知らずかはわからないが、その一つ一つに人間の生活がある。

「じゃあ、無限に人生があったとしたら、わたしが思うどんな人生でも生きることができる、ということになるね」

 そういうことになるかも知れない、と俺は言ったが、うまく想像ができかねた。この話題を続けたくはなかった。

「でもさあ、たとえばこのあたりの蜜柑農家で生まれて、小さい頃からずっと両親が蜜柑を栽培する姿を見て育ったとするでしょう? 村から一歩も出ることがなく、村の中で結婚し、老いていくとしたら。その子が永遠の人生を生きたとしても、やはり毎日蜜柑に囲まれて、世話をして、収穫することを繰り返すんじゃないのかなあ」

 猿の問題ではキーボードをランダムに叩き続けるのがポイントなんだ、と俺は言った。その条件が抜けていた。もちろん猿がずっとAのキイを叩き続けるのならば、いくら待ったってシェイクスピアは生まれやしないよ。

「そっかあ。当然、そうだよね」と彼女は言って、そのあとで、

「あなたは輪廻を信じる?」と言った。

 彼女の言わんとすることはわかった。でも、仮にそうやってランダムに生まれ落とされ続けるのだとしても、意識が続いていないのならそこになんの意味があるだろう?

「人生が一周目なのって、わたしだけなんじゃないのかなって、思うときがある」と彼女が言った。「だって、あまりにもみんなうまくやるから――」

 街に近づくに従って、車の数が増えてきた。すこしずつ生きている店も見られるようになってきたが、郊外の産業道路のテンプレートのような景色は、舞台装置としての役目をなにも果たさなかった。

「もしかしたら、みんな前世の記憶とか、持って生まれてくる人ばかりなんじゃないかって。何回も生まれ変わるうちに、ずっと自分のやりたかったことをいつかはやるの。偶然続いて似た境遇に生まれたとしても、前の人生でやったことは繰り返さないぞって」

 ちょっと危ない思想に思えるね、でも、次の人生が紛争地帯のど真ん中とかだったら、怖いなあ。

「そろそろ着くね」と彼女が言った。脇道から青の日産がわれわれの目の前に割り込もうとしてきたので、俺は慎重に減速して道を譲った。

「あっ。スピッツの『青い車』をかけて」

 また少しのあいだ、静かになる。ねえ、あなたは人生何回目なの、と真剣にこちらを向いて聞かれなかっただけ、とてもありがたかった。