投稿

1月, 2024の投稿を表示しています

猿のシェイクスピア

作者: 沼熊  廃墟のようなレンタルビデオ店の横を抜けて、地方都市へとつながる国道へ出た。山のほうへ近づいていくにしたがい、並列する車も、交差する車も徐々に減り、信号が赤だというだけでひっきりなしの短い足止めを余儀なくされていることが疎ましくなってきた。大都市から越してきたばかりの目にとって、この街の宵闇は普通よりも濃いような気がした。それは単に街灯の数が足りないというだけでなく、なにか民俗学的な事情の絡んだ深遠な原因があるのではないかと思わせるほどであった。この穏やかでない着想は、助手席の彼女が苦しそうな声を出して目を覚ましたことによって中断した。 「また夢を見てた」俺が何も言わないうちに彼女がそういった。「引っ越してから悪夢ばかり見るんだよね、ほんとうに」  どこか近くに落雷があるらしく、ラジオから流れる歌謡曲は雑音に塗れている。今回に限ってはそれが悪夢の原因かもしれない、と俺は一応言った。 「この曲知ってる」彼女はまた別のことを言う。  聴いていたいかどうか、俺は尋ねてみる。どうして、と彼女が言う。ノイズだらけで聞いてられないから、別の局にするか、なんだったらラジオを切ってしまってもいい、と言うと、彼女はAMのプリセットを順番に回して地方のニュース番組に切り替えた。そのあとすぐにトンネルに入ったので、電波は途切れ、同時にノイズもなくなった。ライトがすごい速さでひとつずつ飛んできて、超音速で水のなかを飛んでいるような空気の振動が長く続いた。俺はトンネル内の歩道に、自転車を押す男を見た。 「こんなところを歩いている」その男を抜き去ったあと、彼女が小声で言った、まるでその男にきこえはしないかと恐れているかのように。「パンク?どうしちゃったのかな」  うーん、と曖昧に答えた。蝙蝠のように真っ黒な男だった。とぼとぼと、オレンジ色の光のなかを出たり入ったり。彼はトンネルの外ではきっと、闇にとけこんでしまうのだろう。やがて光が消え、ラジオの音が戻ってきたかと思うと、またすぐに次のトンネル。ふと彼女を見ると、また浅く眠り始めていた。顔が明るくなったり暗くなったりを繰り返す。出口付近でアンテナはようやく地方のニュースを拾ったが、先ほどよりもノイズが頻繁に、ひどくなっていた。俺はラジオのスイッチを切った。  俺も、彼女も、田舎の出身だったから、都市の生活から距離を置くことにはさほ...