運搬
作者: 沼熊
ぼくがそれを持ってアオヤマ通りを歩いていると、正面から、背の低い日本人の男が近づいてきた。こちらを見ているようだ。ぼくはなにを言われても絶対に口を割るまいと決心して、その男から目を離さずににらみ返した。男はどんどん近づいてきて、ぼくの横にくると、少しだけ身をかがめて、ぼくの耳元で、小声でいった。
「おい、きみ。そんなものを目立つように持ち運んじゃいけない」男はポケットから大きな袋を取り出した。てらてらとした素材で、頑丈そうに編み込まれ、小さくヨーロッパの家具メーカーのロゴマークがついている。「これに入れるといい」
僕は注意深く答えた。「だめだよ。こんな袋に入れたら、端が折れ曲がっちゃうかもしれない」
「それでもそんなふうに両手で抱えて歩くよりはましだ」
「こうやって運ぶように言われたんだ」
男がぶつを、控えめに、しかし力づくで奪い取ろうとしてきたので、ぼくはそれを抱える手に力を込めた。それは大きな箱の中に入っていて、赤い絵の具で着色された段ボールのオーパーツだった。けさ塗ったばかりだが、もう完全に乾いたころだろう。ところどころ、段ボールのもともとの印刷が絵の具の下に透けている。そこはおおかたスティーブンが塗ったところにちがいない。彼の仕事は丁寧からは程遠いのだ。それから箱の中には五十センチほどの大きな定規が、チョウの触角のように二本ななめに飛び出している。
「わかった」と男が言った。「でもせめて、定規だけでも袋に入れたらどうだ」それから袋を広げ、ぼくがそのなかにものを入れるのを待ちかまえている。
「袋の取っ手を先にこちらに渡してくれればね」と、ぼくは言ってやった。通行人の何人かが興味深そうにこちらを見る。だれかと言い争いをしている人間しか目に入らないのだ。ぼくがこんなに目立つぶつをもってアオヤマ通りを端から端まで歩いているというのに、そのことに注意を向けたものはこれまでだれもいない。
トウキョウのどまんなかでこれを運ぶのは、そもそもぼくにとってかなり荷が重い任務ではあった。父と日本に来て一週間もたたないうちに、ぼくたちはアオヤマ霊園の近くにあるぼろぼろの一軒家に集められた。そこにはぼくと、ぼくの父と、トウキョウのインターナショナルスクールに通っている子どもたち五人がいた。みな、成績優秀の精鋭たちだった。父はぼくをふくめた子どもたちを集めて任務の説明をした――賭けてもいいが、だれひとりとしてそれの意味するところを理解してはいなかっただろう。それでもみんなは熱心にうなずきながらその話を聞き、それから小一時間のあいだに、おのおのが段ボールを切り貼りしたり、着色したり、意味深な暗号を書き込んだりした。
ぼくは、父が自分のことを特別扱いするのはどうしてもいやだった。ほかの子どもたちと同じように扱ってほしいと思った。父はほかの子どもたちを前にすると、家庭にいるときよりも口数が少なくなるし、あわよくば気の利いたことを言おうとする――任務の説明をしているあいだ、父がちらちらとぼくのほうに意味ありげな目線を送ってくることに、ぼくは気づいていた。
そのぶつができると、父はこれをチヨダ区まで運ばなければいけないと言った。ひとりの勇気ある子どもがこの任務を遂行しないといけないことになっているんだ、しかし、道中でだれかにみつかって没収されることだけは避けるように。だれかそれを引き受ける勇気のある者はいないかい、と聞いた。ほんとうに否定形で、いないかい、と聞いたのだ。その遠慮がちな感じが癪に障ったし、予想通り誰も引き受けなかった。実をいうと、ぼくはそのときだって、父の目線が僕の方に多めに注がれていることを感じていたんだ。
「ニックが行けばいい」と、スティーブンが言った。「きみは以前にもアオヤマから地下鉄に乗ったことがあるんだろう。事情のよく分かっているきみが適任だ」
ほかの子どもたちも、おずおずと賛成の声を上げた。みんな運び屋になるのが怖くて仕方がないのだとはっきりわかった。
「そのとおりだな」父は満足げに言った。「ニック、できるかい」
ぼくには、ふしぎと怖さはなかった。それほど名誉なことだとも思わなかった。それよりも、父やみんなの、なんとかしてその任務をぼくにやらせようというかんじがいやでたまらなかった。ぼくは考えられる限り最高に不満な態度をあらわにして、それでも、引き受けざるを得なかった。そうやって、けさ、みんなに出征でもするかのような盛大な見送られ方をしながら、ぼくはアオヤマ通りを端から端まで歩いてきたんだ。
「きみはメートル法を使うのか」定規を調べていた日本人が驚いたように言った。
「そうだよ」
「驚いたなあ。おれのときは、まだインチの単位でつくっていたものだ」
「あなたもこれをつくったことがあるの?」
「遠い昔の話だよ。おれの団体のまとめ役はおれの親父だったんだ。だから、地下鉄で運ばされる役もおれがやってね」
ぼくと同じだ。その日本人は紫がかった濃紺のスーツに、毛玉だらけの丸首のセーターを合わせていた。髪はきれいになでつけてある。どことなく親しみやすさが感じられるスーツの着崩し方だと、ぼくは思った。
「じゃあ、これも、その袋に入れて運んでも大丈夫だってことかなあ」
「会ったばかりの人間をそう簡単に信用してはいけないよ」と彼は笑いながら言った。
「定規だけ入れるとしようじゃないか。その赤い段ボールは大切にもっていなね」
それからぼくと彼は横に並んで歩きはじめた。見事に晴れた日だった。ヨーロッパのブティックをまねたような趣味の悪い店が、ぼくたちの右手に続く。左手には巨大な公園が見える。それから、そのすきまからひょこひょこ顔を出しているのは、青緑色に光るグロテスクなビルたちだ。まるでだれかが目をつぶっててきとうに放り投げ、地面に刺さっているかのようだ。ぼくたちが言い合いをしなくなったので、まただれもがぼくたちへの興味を失い、水のように流れてゆく――人も、車も。首から社員証を下げた若い女性の一団が通り過ぎる。みんな長いコートを着ている。お互いしか存在していないかのように横を向いたまままっすぐ歩いている。いったい何度同じ毎日を送れば、とぼくは考える。あんなことが可能なのだろう? それからぽつぽつとスーツを着た男が通っていく、彼らは道や人を認識しているような足取りだが、ある標的を追うための手段として、街を利用しているにすぎない。ぼくには、目の奥に、あの、野生動物のような光が見えるんだ。冷たい空気のなかにクラクションが数回鳴り、人々は一瞬そちらの方を見て、そしてまた流れにもどっていく。
「おれがまだ小さかったころ、北アフリカにある国の街角で、父にこんなことを言われた」と男がぼくに言った。「『その街がどんな街かを知りたかったら、カフェのテラス席に腰掛けるのさ。そうして、道を通る人々をよく観察することだ』。その助言からおれは大きな影響を得たよ。おれはどんな街に行っても、そのようにした。二時間でも三時間でもすわっていれば、その国のにおいがわかってくるのさ。ぜひきみにもそいつを授けたいところだが」男はあたりを見回して言った。「この街では、それは難しいのかもしれないね」
「ありがとう、でも心配には及ばないよ。トウキョウにはもう何度もきたことがあるから」とぼくは言った。
「きみはどう思った?」
「とてもエキサイティングな街で、そして、ビルの建ち方がめちゃくちゃだ」
男は、きれいだろう、と言って笑った。
「ここが、地下鉄の入り口だ。バッグは必要ならあげるけれど、どうする」
「ぼく道を知っていたのに」
「そうか、邪魔しちゃったな」
「でも、そのバッグはもらうよ。ありがとう」
「気をつけて」
それで、男は行ってしまった。ぼくは男が行ってしまったあとで、そのぶつをショッピングバッグの中に、ていねいに入れた。その後、長いエスカレーターを降りて地下鉄のホームへ向かった。そこはオレンジと、ピンクがかった紫の二色でぎらぎらと照らされていた。