宇宙の果てはこの目の前に
作者: 沼熊
食器を片付け終わると、みんな自分のロッカーからお昼寝用のタオルケットを取り出して、等間隔に敷いた。先生が「おやすみなさい」といって電気を消すと、一斉に静かになった。
Kには、それが不思議でたまらなかった。さっきまであんなにうるさかったみんなが。Kは先生に見つからないように気をつけながら、少し頭の向きを変えて、となりのAくんを見た。Aくんはクラスでいちばん声も、体も大きくて、サッカーが上手な子だ。Kはいつも、こてんぱんにやられてしまう。足が速いし、すごいシュートを打つのだ。でも、いまは目を閉じて、その体がゆっくりと上下している。かすかに、すーすーという寝息が聞こえる。
Kは注意深く頭の向きを反対側にして、逆隣のYちゃんを見た。いつもKにおもしろい絵本を教えてくれるが、怒ると怖い子だった。好きな絵本を読むときの声は人一倍大きいが、元気なときとそうじゃないときの差が大きい。それから最近、とくべつなことが起きて、上の名前がかわった。Yちゃんが寝返りを打って顔がこちらに向いた。口が開いている。Kは、自分がじっと見ていることがばれては怒られると思い、あわてて仰向けに向き直った。
白い天井には、穴が等間隔にあいていて、茶色いミミズのような模様が沢山ついている。窓の黒くて分厚いカーテンはしめきられていたが、その上から細長く光が差し込んでくる。このまえまで、白い光だったのに、最近はオレンジ色の光だ。それはきっと、地球の公転と関係があるにちがいない。
「ねむれないの」
N先生がやってきた。N先生は他の先生よりも優しくて、Aくんとふざけてトイレの消毒液を床にまきちらしてしまっても怒らない。
「夜にいっぱい寝ているから」と、Kは答えた。
「そうなの」N先生は面白そうに笑った。
「というかね、地球は公転しているから、光がオレンジになるんだよ」
N先生は、ぼくの枕元に膝をついてすわった。腰がちょっと浮いていて、すぐに立てるような座り方だ。
「へーえ。そうなの」N先生は驚いた。
「そうだよ」とKはいった。
「よく知っているんだね」とN先生が言った。Kにはそれが得意でたまらなかった。
「地球は太陽の周りを公転していてね」とKは続ける、「そうやって太陽のまわりをまわっている惑星が、ほかにも八個あるんだよ、水星、金星、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星、あとなんだっけ?」Kは横向きになったまま数えたので指を折る事が出来なかった。何度か数えてみて、八個全部言えていることに気がついた。
N先生はその様子をじっと見守ってから、また、すごいね、と言った。周りを見渡して、思い出したように小声で、「もうそろそろ寝なきゃね」、とも言った。
Kは自分のこの場にそぐわない声量を感じて口をつぐんだ。自分がしゃべるのをやめてみると、地球のどこかにあるこの部屋が、どれほど暗くて静かなのかということが、よくわかったのだ。Kは部屋のほとんどまんなかに寝ていた。その枕元にN先生が座っている。そこだけが光っているかのようだ。そのまわりを、まるで木星の衛星のように、寝息を立てる子供たちがとりかこんでいる。彼らは世界の仕組みを知らない。彼らは世界の仕組みについての話を聞かない。Kには、みんながとても遠くなっていくような気がした。みんな、色とりどりの、しかし色あせたタオルケットにくるまって、暗い教室の端っこに浮かんでいる。KやN先生が重力で引き寄せないと、無重力なみんなは、きっと、遠くへふわふわと流れていってしまうだろう。それがこわくて、Kはもう一度口を開く――「木星には衛星がたくさんあってね――」
「もう寝るのよ。おやすみなさい」N先生は静かにそういって、立ち上がった。
なにごともなかったように、カーテンが開いて、みんなは地球の重力に戻ってきた。Kも目を覚ますと、他の子どもたちと同様に外にとびだした。もう一度、太陽が支配した。当時のKにとって、それはおどろくほど長い時間、壮大な園庭――あいだにいくつもの大冒険をするに足る時空だ。それでもやがて、日は暮れ、みんなは片付けを始める。ばらばらに、運動場じゅうに散らかったカラフルなボール、フラフープ、大きなスコップやおままごとセットが、いつも一つの巨大なカートにおさまり、それが園の端にある、頑丈な倉庫におさまってゆく、そして、そのあとみんなも黄色い明かりのつき始めた園内に帰ってゆく。遊技場の窓からビニール製の首の長い動物たちが外を見ているのが見える。お迎えの早い子たちの親がすでに来ていて、彼らがでかい声でさようならのあいさつをする。
倉庫の鍵を持っているのは、またしてもN先生だ。お片付けの時間が始まると、Kは先生と、そして、園内の注目をすべてさらってしまう、あの巨大なカートと一緒だった。Kは先頭でカートをひっぱる。目立ちたがりのKにとっても、先頭というのはかなり思い切った位置取りだった。すべてのおもちゃを回収し終わり、先生と、片付けに協力的なごく一部の子どもたちと、倉庫のほうへ向かってゆく。倉庫からあと数歩のところで、Kは気づく。このまま先頭で倉庫に入っていけば、もしかしたら、N先生は僕に気づかずに倉庫の扉を閉め、鍵をかけるかもしれない。それは心躍る、ちょっとしたトラブルだ。
Kがカートとともに倉庫の中に入ると、なにも気が付かないN先生と子どもたちは、外側から倉庫の鍵を閉めた。がしゃん、と大きな音がした。倉庫が壊れるのではないかと思うほどの音量だった。土ぼこりにまみれた倉庫の中には、おもちゃのほかに、園庭に白いラインを引くための手押し車があり、その中にいれる石灰粉の紙袋が規則正しく積み重ねられていた。石灰粉は独特の匂いがして、運動会のにおいだ、Kはそれがとても好きだった。Kは封が開いて半分空になっている袋の口を開いてみた。袋の中に手を入れると、こまかい粒子がぎゅっと押し固められるような感触があって、粉同士が滑っているような音がする。手に掬って取り出してみると、粉が煙のように舞い上がっているのがかすかに見える。運動会を凝縮したような匂いが狭い倉庫一杯にひろがる。
ほかの遊びを試みる間もなく、倉庫の外から大声でKを呼ぶ声と、こちらに向かって走ってくる足音が聞こえてきた。Kは闇のなかでゆっくりと落ちていく石灰粉のきらきらをじっと見ていた。主流の説では月は地球にぶつかった巨大な天体のかけらが、重力でひとつにかたまってできたという。それはきっとこんなふうだったにちがいない。その昔、だれかが巨大な園庭のすみっこにある巨大な倉庫に忍び込んで、暗闇のなかで生命のもとをまきちらしたにちがいない。それから想像できないほど長い年月が経ってKが生まれた。Aくんが生まれた。Yちゃんが生まれた。それも、誰かがやってきて倉庫の外に連れ出すまでの一瞬の間におこったことなのかもしれない。Kは倉庫の扉を控えめにとんとんと叩いてみた。それからもう少し強く。倉庫全体が共鳴して波打つような感じがした。Kの宇宙が揺れた。家に帰ったら、お母さんにこの冒険をおおげさに話して聞かせよう。一時間も倉庫に閉じ込められた話をしよう、それでも――宇宙の果てがこの目の前にあったことは、大人になってもぼくだけの秘密にしていよう。