金の丸眼鏡、チョビ髭、ハンチング帽にダークグリーンのスーツの男

作者: 沼熊

 金の丸眼鏡、チョビ髭、ハンチング帽にダークグリーンのスーツの男とぼくがすれ違ったのは、秋がはじまってもう数週間がたった、よく晴れた日のことだった。ぼくはいちじるしく歩道の狭い通りを西から東へと歩いており、彼は東から西へと歩いていた。黒いワンボックスカーが、危うさを感じさせかねない速度ですぐ脇をすり抜けていき、彼のハンチング帽がすこし揺れた、そこは空でいえば、青い空気がだんだんと落ちてきて、煙草の煙のように黄色く滞留しはじめる場所だった。

 金の丸眼鏡、チョビ髭、ハンチング帽にダークグリーンのスーツの男は、そのハンチング帽のすきまからでも念入りにととのえられていることがよくわかる銀色の短髪をきらりと光らせ、気持ちのよさそうな表情をうかべながら、まるで竹馬に乗っているかのような奇妙に硬直した歩きかたで、僕のちょうど半分の速度ですれ違っていった。彼の奥様は、彼に歩幅のいくぶん及ばない二足を機械式のモップのように動かしながら、きわめて低い重心ですれ違って行った。もっとも彼女の印象は、道沿いに念入りにはりめぐらされた生垣とほとんど同化していたので、ぼくが彼女の存在に気づくまでには一瞬の猶予があった。

 金の丸眼鏡、チョビ髭、ハンチング帽にダークグリーンのスーツの男はなにも見ていなかったし、そもそもその丸眼鏡が、快活なトロンボーン奏者のようにあわただしくきらきらした光をそこらじゅうかまわずふりまき続けるので、仮に彼が硬直したリズムで弾みながらある一点を凝視していたとしても、誰もそれに気がつかなかっただろう。

 もしも時間を巻き戻せるのならば、ぼくはまず、すばやく走り去っていった黒のワンボックスカーを猛スピードで後退させて、そいつの引き起こした空気のうずを解放し、そのあとで現れる、器用にバランスをとりながら登場したダークグリーンのスーツと、ハンチング帽と、チョビ髭と、金の丸眼鏡に向かって、話しかけるのだろう。

 彼は立ち止まる。あわただしい丸眼鏡が、さっと動いて、そこにぼくの姿を認める。いままでずっととびはねていたメロディーが一瞬ストップして、そのとき、ぼくは眼鏡のむこうに初めて、彼の本当の眼を見るのだ。


 金の丸眼鏡、チョビ髭、ハンチング帽にダークグリーンのスーツの男が、金の丸眼鏡、チョビ髭、ハンチング帽にダークグリーンのスーツの男たる各要素のそれぞれを、どのような順序で手に入れたか、ということは、さだかではない。ただし、どうやら金の丸眼鏡、もしくはダークグリーンのスーツが最後のピースなのだろうということは、まちがいないようである。というのも、かつてぼくたちが出会ったところは色のない世界だったので、そこに金の丸眼鏡やダークグリーンのスーツは存在しえないからだ。

 ぼくたちが出会ったときの彼のことを、さしずめ、《丸眼鏡、チョビ髭、ハンチング帽にスーツの男》とよぼう。

 あれも、たしか秋の始まりのころだったと記憶している。ぼくはその頃デザイン科の学生だったが、授業は一時中断され、大学祭への準備期間に充てられていた。戦争による中断期間をはさんで久しぶりの大学祭になるはずだったので、熱意のあるもの達が何ヶ月も前から計画をたてており、そのことを皆が知っていた。ぼくはといえば、友達に誘われて大学祭の実行委員会に入り、入口の巨大なゲートの、題字のレタリングを担当することになった。

 自由、というのがあのときの、青臭い学生だったわれわれにとっては壮大にすぎるテーマだったのだと、いまになって思う――ゲートは、貴重な木材を組み合わせて作られ、その図版は、空を飛ぶ渡鳥たちをいくつも描き重ねるものに、いち早く決定した。何人もの学生が、羽をきもちよさそうに広げ、揚力をみなぎらせ、いまにも空に向かって滑り出しそうな渡鳥の絵を分担して描いた。それらが、巨大なゲートに取り付けられる――それらは、ほんとうに空を飛ぶ――ぼくたちは、それがもつ象徴的な力を確信した。

 あるとき、渡鳥を担当していた絵描きとふたりで、薄暮れの教室で居残り作業をしたことがあった。国鉄でストライキがおこり、夕方以降の電車が止まってしまうというので、実行委員会の大半は日が暮れるまでに帰途に着かなければならなかった。ぼくは大学まで徒歩で通える範囲に住んでいたし、絵描きはかれの父親が車で迎えにくるというので、その事件に巻き込まれる心配がなかったのだ。だが、絵描きが時間の伝達をまちがえていたらしく、かれの父親は、予定より二時間も早く大学にきてしまった。

 すまない、四号館におれのロッカーがあるので、筆をあらってから、そこにしまっておいてくれないか、と、絵描きがいった。それから、これが四号館の鍵だ。この時間だと心配ないとはおもうが、だれかにみつからないように。鍵は明日手渡してくれれば良い。

 四号館には油絵科のアトリエがあり、他の学科の者は入館自体が許されていなかった。そこは一種の魔境として、他の学科の生徒には冗談まじりであがめられ、なかばおそれられていた。ぼくは、急遽とびこんできたこの心躍る冒険に、こころよく応じた。絵描きが何度も謝りながら、父親とともに教室を出ていくのを見届けたあと、ぼくは二時間ほど書体のデザインに没頭し、唐突に、蛍光灯の灯りが外の暗さにまったくつりあわなくなってしまったことに気づいたのである。

 ぼくは絵描きの残していった画材を手に、キャンパスの反対側にある四号館へと歩き出した。ひとりで夜のキャンパスを歩くのははじめてのことで、ぼくはそれが気味悪く闇をたたえていることに気づいた。まるで四角い容器に満ちたつめたい洋菓子のクリームのように、重々しく沈み、虫の声によわく絶え間なく揺さぶられ続けていた。道には必要最小限の洋燈しかなく、ぼくは自分のたよりない影が伸びたり縮んだりするのをじっと見ながら歩いた。

 四号館は、他の校舎と同じく、奇妙なつくりの建物だった。ぼくは螺旋階段を登ってコンクリートの穴をくぐり抜け、その上に出た。

 《丸眼鏡、チョビ髭、ハンチング帽にスーツの男》はそこにいた。

 彼もまた、画材のあとしまつをしていた。猫背の背中に、上質そうな生地のスーツがぴったりと張りついていた。それはたったいま闇から取り出したばかりのような濃度をはらんでいた。ぼくの気配を感じて彼が振り返った。ぼくは挨拶をした。

 見ない顔ですなあ、と、彼はつぶやいた。それはまちがいなくぼくに向けられた発言であったはずなのに、どこか全方位に発散して消えてしまうような、三人称のひろがりがあった。

 わたしは油絵科の生徒ではないんです、とぼくは正直に言った。いま、大学祭の準備をしていて。油絵を描いている者が途中で帰ってしまったので、代わりに片付けをしているのです。

 《丸眼鏡、チョビ髭、ハンチング帽にスーツの男》は、ぼくの方をまっすぐに向いて、黙っていた。彼の目ではなく、彼の一対の眼鏡が、ぼくをとらえた。金属製の冷淡な光沢がぼくに向けられたと思った。彼のほんとうの目は、レンズの向こうに引っ込んで、なにも印象をのこさなかった。

 大学祭ですか。

 彼の言葉にどんな感情がこもっていたのかを押しはかることはむずかしい。しかし大学祭というものが、いくぶん子供騙しに後退してしまうかのような、にぶく恥ずかしい感覚があった。ぼくは彼に質問した。

 あなたは、こんな時間まで、なにを描いていたのですか。

 こんな時間まで、という部分に、やはり彼に対抗するような侮蔑的な響きをたくわえていたことを、ぼくは白状せねばなるまい。

 《丸眼鏡、チョビ髭、ハンチング帽にスーツの男》は――あるいは、彼の金属縁の丸眼鏡は――すこし表情をやわらげたように見えた。

 すぐそこの部屋にある。ご覧になりますか? もう洋燈は消してしまったけれど。

 それから、ぼくは彼に続いて、彼の絵があるという四一一号室に向かった。途中でぼくは、彼の背がひときわ高いことに気づいた。彼が全身の力を押しこめるようにして、重い金属製の扉を開けると、イーゼルにかかった絵がそこにあった。

 それは、羽を畳んだ大きな鷲の絵だった。全体としては暗がりに沈んでしまっていたが、その一対の目はらんらんと光り、まぎれもなくこちらを凝視していた、ぼくが教室の扉を開ける前から、それを予期するようにこちらを見ていたのだということがひと目でわかった。それは不思議な目だった。サディスティックなよろこびと悪意に満ちてはいたが、いっぽうでぼくを熱烈に歓迎する調子も感じられるのだ。ぼくは、アーチに描かれた、折り重なって空を滑空する渡鳥達を思い浮かべた。そして、彼らにも、木の枝や地面に留まって、なにかをひたすらに凝視する時間があるに違いない、ということに思い至った。ぼくたちの自由を背負わせて、好き勝手に空を飛ばせるというのは、なにかとくべつ不当な仕打ちを彼らに課しているように思えてきてならなかった。

 飛ぶまえに、見ているのだ、と、《丸眼鏡、チョビ髭、ハンチング帽にスーツの男》がぼんやりといった。ぼくは彼の方を見た。あいかわらず、その目は何も語らないどころか、フレームの奥に目があることさえおぼつかないありさまだった。それからぼくはひとりでに部屋を出て、帰途についた。大学祭のあと、《丸眼鏡、チョビ髭、ハンチング帽にスーツの奇特な男》が、学生運動かなにかにかかわって、退学になったのだ、といううわさを耳にした。その真偽の如何にかかわらず、ぼくは彼を再び見ることはなかった。


 コンビニから帰ってきたぼくは、まずいパスタとコーヒーを胃に入れたあと、畑と私鉄の線路がみわたせるベランダに出た。それらは北側にあったので、アパート自体の影の向こうに、不釣り合いなほど明るく見えた。地平線ぎわの黄色い空気の滞留はいつのまにか消え、灰色の雲になっていた。それから、そのはるか上を、名前のわからない鳥たちがひとかたまりになって飛んでいった。

 彼――金の丸眼鏡、チョビ髭、ハンチング帽にダークグリーンのスーツの男――は、近くに住んでいるのだろうか、とぼくは考えた。彼はどうやら結婚して長いように見えた。子供や孫がいるのかもしれないし、絵を描いたりなにかに熱狂的に肩入れしたりすることはすっかりやめてしまったということも大いにありえた。金の丸眼鏡にちらつく光のように、あわただしいイメージの断片が、勝手にたくさん浮かんできて、それからあの絵と、彼の言葉のまえに静止した。飛ぶまえに、見ているのだ、と彼はいった。

 ぼくは、いつか、金の丸眼鏡、チョビ髭、ハンチング帽にダークグリーンのスーツの男が、その後の人生でなにを見て、どのように飛んだのか、それを、じっくりと確認してみよう。