作者: 髙嶋 大作戦

 抜け落ちていた。抜け落ちていたのは髪の毛や歯ではない。詩的な暗喩表現でもない。空にぽっかりと穴が開いていた。その大きさは直径1kmくらいあるだろうか。遠いのと高さによる距離感があまりつかめないのもあって正確な大きさはわかりかねた。その穴には奥行きは感じられなかった。まるで黒いパッチをそのまま空に張り付けたようであった。いつから開いていたのかはわからなかった。今日、たまたま空を見上げると穴が開いていていたのだ。気が付いたときに僕はぎょっとして漕いでいた自転車を止めた。車通りは意外と多い県道沿いの道だったがあの異変に気が付いているのは僕だけのようだった。田舎の車道なので歩行者はほとんどいない。車はトラックから乗用車、うるさいバイクまでひっきりなしに通る。自転車は年寄か学生、外国人もしくは気狂いしか漕いでいない。僕は恐らく四番目のグループだとみなされている。車は誰も気が付いていないようだしたまに通る自転車もわざわざ止まっている僕の視線の先を確認して何もないじゃないかと言いたげな表情で去っていく。三台目の自転車にはベルを鳴らされた。穴が開いている空の下には山と田んぼがあった。夏真っ盛りで山の緑は青々としており田には稲が真っすぐに育っている。アスファルトの照り返しで汗だくな僕と違って涼し気な夏がそこにはあった。穴の黒は炭に近い光沢がありそのことが平面なのか立体なのか理解を難しくさせていた。僕はスマホで写真を撮った。写真にもその穴は映っていた。ひとまず僕の目がおかしくなったわけではないみたいだ。僕は写真をLINEで共有した。どのグループも個人も既読は付くが特に反応はなかった。バイト先のLINEだけ気を遣われたようにきれいな空ですねと送られてきた。僕は汗を拭った。みんなあの穴はそこまで不思議なものだと思っていないようだった。言われてみれば最近空何て見上げることもなかったしああいうものな気がしてきた。これが天変地異なら堂々と休めるというものだが取るに足りないつまらない出来事なのだとしたら遅刻は許されない。僕は自転車をこぎ始めた。

 道の脇には田んぼが広がる。田んぼの脇には用水路が水を勢いよく流している。この風景は通勤の初め三分の一の景色だ。残り三分の二はアスファルトで見るからに夏は暑くて冬は寒い。僕は自転車を漕ぎながら用水路で泳ぐ。ニジマスのときもあるしトビウオのときもある。カエルのときもあるしカワセミのときもある。用水路の水は冷たくて綺麗だ。僕だけの専用レーンで水しぶきを上げながら進んでいく。跳ぶのが下手くそなサギが僕に並走して風に流されて田んぼに突っ込む。水中から出て風を感じると僕まで飛んでいるみたいだ。用水路が道から離れて行ってついに見えなくなったときに僕は自転車に戻ってただ真っすぐ前だけを見て自転車を漕いでいく。

 長方形の建物に何店舗か入っていて僕はその中のひとつで働いている。建物の道路側はガラス張りになっていて開放感があり、木の模様を主体とした床は温かみを感じさせる。ライトも暖色系のスポットライトで洒落た雰囲気を演出している。店内は少しだけ冷房が効いていて入ったときは涼しく感じられたが汗が引くほどではない。僕は全店舗共有のロッカールームで汗だくのグレーのシャツから白いワイシャツに着替えて黒いエプロンを付ける。スコップを握って売り場に出る。売り場は正方形に区画が分けられており今日はVB5の区間になる。昨日の区間は固い地盤にも当たらずに楽に掘り進めることができた。その掘っておいた区間はすでに朝番のスタッフの手によって綺麗に埋め立てられて整地されている。昨日の区画を掘るのはまた半年ほどあとのことになるだろう。昨日の区画を客が覗き込んでいる。僕がこれから掘ろうとする区画にも入ろうとしてくるので今日はそこを掘るのでと笑顔で声をかけてどかせる。僕は穴を掘るのは北がわのぎりぎりのところからと決めているのでそこにバツ印を付けてスコップを突き立てる。実はこの瞬間までは不安でいっぱいでだるいような怖いような気持ちがする。スコップを差してしまえばはじまればもうあとは終わるだけだ。慣れたいつも通りの手順で地面を掘り進めていく。はじまれば気が付いたら仕事は終わっている。

 バイト先でも特に穴に関する話はなかったしスマホニュースでも特に取り上げられることもなかった。掘ってる穴の話ならたくさんするがここで言っているのは空に開いた穴の話だ。そんなものだから僕はもう帰るころには穴のことなんてすっかり忘れていた。

 帰りは夜中の零時を超えている。帰り道の三分の二は街灯があるので明るいが三分の一はそんな気が利いたものはないので暗い。街灯が照らす景色は昼間と変わり映えがしない。空に開いた穴も相変わらずそこにあった。白い竜が滝替えを行うようでゆらゆらとはるか上空を飛んでいた。山がちで滝の多い地形なので竜だけは無駄に多い。飛んでいる竜を見るのは難しいことではない。満月のそばを不健康に細い竜がぬらぬらと光りながら飛んでいるのを見るのは気味が悪くて悪いことが起きそうだ。その竜が黒い穴を横切ろうとする。竜にもあの穴の存在は認識されていないようであった。穴に差し掛かると竜の姿は消えた。黒い穴にかかっている部分だけが見えなくなってかかっていない部分だけはまだ前に進んでいる。穴に差し掛からなくなるとまたホワイトアスパラガスのような頭が見えるようになった。竜は何もなかったように飛んでいる。穴に隠された竜と今みている竜が全く同じものなのかはわからなかった。

 次の日も空に穴は開いていた。やはり誰も気が付いていないみたいだった。僕が空を飛べれば見にいくことができたし、飛行機を持っていれば突っ込むことだってできるだろう。しかし僕はもっていないので自転車に乗る。今日は昨日よりもずっと涼しくなっていた。昨日まであんなに汗だくになりながら漕いでいたのが馬鹿みたいだった。用水路の水は冷たくて魚たちも喜んでいるようだった。泳ぎながら何度も飛び跳ねて僕に水しぶきをかけて水の冷たさを教えてくれていた。飛び跳ねる魚を狙ってサギが近づいてくるが笑ってしまうくらいに飛ぶのが下手くそで今日は電柱に突っ込んだ。笑いながら魚を見ると急に姿が消えてしまった。僕はびっくりして急ブレーキをかけた。ブレーキしたところの目の前には穴が開いていた。僕が向かう先10mほどの大きさだった。質感は空に開いていたものと全く同じものに感じられた。バイトに行くにはこの穴を通らないといけない。大きな道路で向こうの歩道に渡るにはずっと後ろに戻らないといけなかった。僕は迷っていたが、昨日の竜の姿が思い浮かんでいた。なんともなさそうだったので僕はこの穴を通ることにした。漕ぎだした。もう戻れないところで魚が消えてしまっていたことを思い出す。これはよくなかったのかもしれなかった。が、もうどうしようもなかった。黒い穴に入ると何も見えなくなった。耳は聞こえているような気がするが無音だった。自転車を漕いでいる感覚だけはあった。穴の大きさ的に10mほど漕いだの同じ体感で僕は外に出ていた。特に何も変わった感じはしなかった。

 僕はバイト先に着いていつも通りにレジ打ちをした。