穴を掘る

 作者: 沼熊

 穴を掘っていなかった頃の生活が、どのようなものであったか、すっかり忘れてしまったわけではないが、本当にそんなものがあったのだろうか、と、訝しむのもむりはない。地上で生活する人間は、時間と一本道のメタファーを、真の意味で理解することはあるまい。さくっという音がして、土に刺さる。掬う。放り投げる。ここでは、その行為の連続を時間と呼んでいる。土に刺さる、掬う、放り投げる。土に刺さる、掬う、放り投げる。飛んでいる矢は止まっている。土に刺さる、掬う、放り投げる。見上げると、ピンホールのような地上への出口があって、その上で流れる平面的な時間について、妙に示唆的だ。

「夕方」

 赤く焼けた、小さな円が見えて、僕はそうつぶやいた。

「今日もよう掘ったなあ」

 土が、僕の声を吸収しにかかる。ところで、穴を掘るときに、その土をどう処理するか、というのは、生物共通の悩みどころであるという。たとえば、蟻の巣作りでは、それぞれの個体が、一つずつ砂粒を咥えて運び出していく。そのとき、まじめに、巣穴から遠く離れたところに廃棄する個体と、さぼって、その辺にぽい、と投げすてる個体がいる、ということである。ただし、全体で見ると、ちゃんと、捨てられた砂粒は平されているということだ。

 僕の掘っている穴は、広くて、深い。掘り始めたころは、土を周囲に撒きちらしていけば、問題はないのだが、ある程度の深さを超えてからは、そうもいかなくなってくるものである。しかし、ここではその心配は、しなくてもよい。なぜかというに、一晩寝ると、昨日の分の土は、きれいさっぱり消えているから。僕の想像では、寝ている間に、妖精の群れが空からひらひらと降りてきて、それぞれの取り分を抱えて、穴の外に運び出してくれているのである。僕は彼らの営みを想像する。穴から出たら、ある者は、遠く離れたところまでせっせと運び、ある者は、穴のすぐそばに、土を捨ててしまうのだろうか。

 息苦しくなることはないが、寂しくなることはある。腹が減ることはないが、怖くなることはある。そういうものなのだろう。ライトが四角く光り、電源コードが地上まで伸びている。なんとはなしに、親指と人差し指でコードをぬぐった。適度に、湿り気を帯びた土の感触がする。この深さまで掘れば、水が湧いてきてもおかしくはないが、いまだ、水脈にはぶつかっていない。

 僕は、かつて存在した秋のことを思い出した。平面的な、余りに平面的な……。


 代々木と新宿の、ちょうど真ん中にある小さな雑居ビルで、僕はアルバイトのための研修を受けていた。僕の右隣の男は、ほとんどの時間を、眠って過ごすか、パイプ椅子に深く寄りかかり、挑発的な態度で講師の方を見ていた。講師は慣れた様子で、その男のことが目に入っていないようなそぶりで、淡々と講義を続けていたが、僕は気が気ではなかった。そんなふうにして時間が流れたから、僕は、ただ座っていただけとはいえ、ずいぶんと神経をすり減らしてしまった。

「はい、それではここまで終わったら。一旦休憩にします」

 それは、予定されていた時間よりも、いくぶん早い宣言だった。僕は、この痩せた初老の講師が、室内全体に充満する(とくべつ、その男からの)圧に屈したような気がして、少し悔しく思った。ただ、この空気からできるだけ早く逃れたい、という気持ちも、たしかにあった。右隣の男は、講師が「ここまで」と線を引いた内容が終わるか終わらないかのうちに、大きな動作で席を立ち、僕の視界から消えていった。僕は、なるべくそちらを見ないようにした。

 しばらくして、男が出て行った後部の扉から、ここの社員が入ってきて、僕に声をかけた。社員は、戸締りのためにひとり休日出勤し、研修が行われている間は、隣の部屋で事務作業をしていた。

「タバコ、いこか」

 社員は身体も、目も、髪の毛も、全てが細い三十代くらいの男性で、そのうえ、細いフレームの丸メガネをかけていた。笑うと、口から等高線のように細い皺が、いくつも生まれた。

 社員に続いて、雑居ビルの狭い階段を降りていった。僕は、右隣の席に座っていた男と出くわさないか、と、見回した。社員と一緒にいられるところを見るのが、なんとなく嫌だった。それは、ショッピングモールで親といるところを、クラスの友達に見られると恥ずかしい、という感覚と似ていた。

 上着を講義室に置き忘れてくると、外は、少し寒かった。中央線の車両が、高架を通る音が聞こえた。喫煙スペースは、穴の空いた黒い金属パネルで目隠しされていて、かなり混んでいた。僕は相変わらず、右隣の席に座っていた男を、探すとはなしに、探していた。

 細い社員は、ひと吸い目を素早い息で吐き出して、言った。

「みんなには、タバコやめるいう約束して、入ってんなあ」

 みんな、が指す人間たちを、僕は具体的にイメージすることができた。書類のやり取りなどで、何度かこの会社に来ていたので、数少ない社員をおおむね把握していたからだ。

「ほお」

 僕は、目上の人間の背徳行為に対して、どのように反応するのが正解なのか、わからなかったので、曖昧な音を出すほかなかった。

「バレたら、どうなるんですかね」

「クビちゃう?」

「クビ?」

 社員は、喫煙が本当にバレたかのように、そわそわして見えた。クビ、というのは、あまりにも、重い罰のように思われた。僕が知るかぎり、この会社は時流に逆らっていて、喫煙にはかなり寛容で、むしろ、推奨しているかのような雰囲気さえあった。重役しかり、社員しかり。

 僕は、それが、どれほど僕にとって無意味なものであろうとも、先ほどの思い切った発言の意味を、考えずにはいられなかった。台詞をドラマチックに飾り立てがちである、という悪癖からくるものなのか、それともこの社員と、他の社員との間には、表面上はわからない、深い何かしらの関係があるのか、どちらだろう、と考えた。社員はそれきり、黙ったまま、遠い目をして、何度もタバコを口に運んでいる。僕は、後者だろうな、と推量した。この社員と、僕との間には、あくまでも平面的な関係しかないのだ、ということが、寂しかった。仲良くなりたかった、というわけではないのに、いったいどうしてだろう。

 仕切りの奥から、あの右隣に座っていた男が出てきて、僕と社員に気づき、無表情のまま小さな会釈をして、社屋に戻っていった。


 穴の中には、秋は存在しない。季節とは、忙しい交差点で、急に右折してくる乗用車のようなものにすぎない。それは、もとより、僕がある方向を向いて進んだり、戻ったりするときに、もう一次元上の存在を前提とするものなのだ。

 いくらだって掘れる。僕は、疲れとは無縁だ。それでも、時折、そこに交差してくるものに、憧れるときがあった。水脈にでも、地下鉄にでも、モグラの巣でもいいから、とにかく、何かにぶつかれば、おもしろいだろう、と思うことがあった。おもしろいだろう、というのは、あるいは、傲慢な言い方に過ぎるかもしれない。ほんとうは、僕は、何かと交差したくてたまらなかったのだ。

 掘り出した土の山が大きくなってきたので、僕は、今日は切り上げて、また妖精たちの力を借りよう、と考えた。リュックサックから薄いシートをとりだし、土の山の間に上手く敷いて、僕はその上に横になった。日も完全に暮れたのだろう、さきほどまで見えていたピンホールの穴は、すでに見えなくなっていた。

 毎晩、掘るのをやめるたびに、穴の中の、驚くほど静かなのを発見する。掘っていない時間は、掘っていたときがどのようであったかを、忘れてしまう。ちょうど、地上での生活を忘れてしまっていたのと同じだ。

 いくつかのしずくが、顔に当たるのを感じた。たまに雨が降ると、座標軸のとらえ方は、さらに、もう一次元、上にいく。


 僕は、大あわてでエレベーターに駆け込み、一階のボタンと、《閉》ボタンを数度、押した。時計は、待ち合わせ予定時刻の三分前をさしていた。ドアが閉まると、確認のために、先方の企業からの招待のメールを開いた。

「先に上がっとくね」と、クロサキさんからのメッセージがとどいていた。僕はそれを通知画面で確認し、既読を付けないまま、メールと、地図を確認した。

 やはり、隣のビルだった。距離は、さほどでもないと思われるが、入口は、どこにあるのかあやしい。隣のビルは、商業フロアの面積が広く、オフィスフロアの入口は、ぜんぜん違うところに設定されている、ということだって、大いにあり得る。

 僕はエレベーターから駆け出すと、隣のビルの正面を確認した。やはり、反対側だろう。異常に清潔なテラス席の隙間を走り抜け、ビルとビルの間を進むと、「オフィスフロア入口」の矢印表示を確認した。

「いま、エレベーターホールにつきました」と、僕は、ガラス越しに見えるエレベーターホールを少し先どって、クロサキさんに送信した。クロサキさんの側が、入力中の三点表示になる。

「よかった。二十五階ね。まだあちらも来てないから」

 招待のメールから、QRコードをゲートに触れると、おおげさな音がして、ゲートが開いた。このとき、約束の時間ぴったりになった。僕は、くだらない勘違いから生じたこの遅刻が、あまり大ごとにならなかったことに安堵した。すこし落ち着いて、服装をととのえながら、エレベーターが六つ並ぶきらびやかなホールで待っていると、後ろから名前を呼ばれた。

「あ、タカハシさん」

 相手企業の担当者だった。

「隣のビルと間違えてしまって……」僕は、聞かれてもいないのに、言い訳をはじめた。

「はじめまして。オオキです」相手は、僕の声が聞こえなかったような調子で、自己紹介をした。そして、にっこりと笑った。彼とは一度だけ、ウェブ会議で一緒になったことがあるのだが、そんなことは憶えていない、とでもいうように、きっぱりと、はじめまして、と言った。僕は、彼が大柄であることを知った。

 エレベーターが開いて、僕と彼は、乗り込んだ。こんなに巨大なビルなのに、僕たちのほかには誰も、乗り込んでこなかった。これから、二十五階分の気まずさが始まる、と思った。

「あの、実はですね」ドアが閉まるや否や、オオキが僕のほうをまっすぐに見て、話しかけてきた。僕は、僕が相手企業の担当者と一緒にロビーに現われたら、クロサキさんはどう思うだろうな、と考えていた。

「こんなところで、言うのもなんなんですけど……」オオキが少し声を落とした。ただし、自己紹介のときの笑顔はそのまま、彼の顔に張り付いていた。僕は、表情をいっさい変えずに、声のトーンを下げる、という芸当に、感銘を受けた。

 四階を過ぎた。エレベーターはスピードを上げる。

「はい」

「今回の件ですね、やはり、弊社としては厳しいですね。すみませんが……」

 オオキは、そこで言葉を切って、階数表示を見た。

 ニ十階を過ぎていた。エレベーターが減速を始める。それで、オオキはもう何も言わなかった。

 これから先の一時間は、双方にとって、まったく意味のない、打ち合わせということになる。僕は、それが既に決定されていた事項なのだとしても、担当者の下の立場の者に、しかもエレベーター内で話してしまう、というのは、さすがによろしくないのではないか、と思った。オオキさんは、これをどういう意図で言ったのか、探ろうとした。せっかちで、衝動的で、なんでも口に出せるタイミングで口に出してしまう人間なのかもしれない。もしくは、悪意があって、僕を困らせようとして、言ったのかもしれない。いずれにしても、これはくつがえせない、決定事項なのだ、ということだけははっきりと伝わった。

 ドアが開いた。ロビーでは、クロサキさんがにこにこしながら、しかし少し驚いた様子で、僕とオオキを迎えた。オオキがまたしても、にこやかに、挨拶をした。僕は、ここから一時間、クロサキさんの負け試合を、ぼーっと眺めつづけることになるのだな、と思った。どうやら、そこに三次元的なルール違反があった。


 進むか、戻るか、そのどちらかしかない穴の中は、単純で、ことはすべて、自分の思うがままに運ぶ。そして、感情ゆたかな人たちが、わき道にそれたり、ぐるっと回ったり、ジグザグに進んだりして、かしこい人たちが、それを丸ごと突き破ってロケットのように進む。

 先ほどの雨は、すぐにやんだ。通り雨だったらしい。そのあとで、ピンホールの穴が鈍く紫色に光り始めたのを見ると、雲の奥から、かなり明るい月が、顔を出したようだ。もしくは、穴のすぐ脇に、イオンモールなんかができたのかもしれない。

 僕は、首を動かして、周りに積まれた土の山を見た。寝転がってみると、それは日本アルプスの山々のように、容赦なくそびえて見えた。あまりに高いので、寝ているあいだに、顔に崩れてきたらどうしようと、僕は心配した。なぜ、今までこわくなかったのだろう。このあとで、豪雨がきて、あのピンホールのような山を通って、僕の周りが水びたしになってしまうかもしれない。ああ、それがいったんこわくなってしまうと、まったく眠たくならない。こんなことは、はじめてだった。このまま朝になってしまうと、困る。僕が起きているかぎり、妖精たちは、土を地上に運び出すことができないからだ。

 僕は起き上がり、ライトをつけ、そこから地上にのびているコードを、軽く引っ張ってみた。こんなことをするのは、初めてだった。コードは、たよりなく、下にずり下がってくる。もう少し強く引いた。勢いよく、ずり下がってくる。僕は何度も、何度も、黒いコードをひっぱった。ひっぱった分だけ、少しずつ下がってきたコードが、僕が掘ってきたこの穴の、じめじめした床に、重なりあっていく……。