タイム・トラベル
作者: 沼熊 われわれの物理学の教授は大塩八郎という名前で、空間の膨張についての理論でかつて世界の一部から権威といわれていた。彼は教育者としては、過去を必要以上にありがたがって絶対視するという致命的な欠陥を抱えていた。そもそも彼の名声はそのほとんどが一九九〇年代に得られたものであった。その後、彼がテクノロジーの変化にうまく順応することができない間に、着実に若い理論に先を越されていった。現在では彼の理論はどちらかというと世界史における権利章典のような扱いを受けている。 彼は自分が時代から取り残されていくことに対する自覚があった。そのことは彼に、世間の彼に対する注目を一定の基準から下げないようにコントロールする能力をさずけた。彼の世界からの存在意義はカップ一杯分ずつつぎたされていった。「嘘八郎」というありがたくない綽名を伴って。それは十数年の時を経ていつしか「パチロー」へと変化した。 私とAはファミリーレストラン的な曖昧さの決断でパチローの授業を受講していたが、それは最悪とはいえないまでも、私たちの下した悪しき決断のひとつであった。期末考査も終了した夏休み直前の講義で私たちは後段の一番端に座り、自動車免許合宿のパンフレットを開きながら輝かしい夏の計画を立てていた。断片的にパチローの八百のうちの特に耳を惹く数個が聞こえてきた。それによるとパチローはここ最近、愛用のウィンドウズ95にChatGPTをインストールして規模の大きな研究に取り組んでいるということである。 その講義の終了後、私とAはパチローの研究室に呼び出された。そんなことは一度もなかったので、我々は戦々恐々とした。期末考査の結果に懸念のあるAはとりわけであった。 パチローは奥の席に座ると、我々に向かって自動車免許合宿のパンフレットを出すように求めた。そしてこう言った。 「ここ、いくんか」 我々は小さな子供のよう。 「わしが一九九六年を過したのは、この町じゃ。ここに研究室があった」 それからやや間が空いた。私はパチローの棚に飾ってある、著名な学者との記念写真を眺めていた。パチローの顔が終夜営業のガソリンスタンドの輝きを帯びていた。 「空間は膨張するのお」 パチローは再度口を開いた。我々はそれが、学期を通して我々が無碍にしてきたパチローの重要な理論に対する気まぐれな試験だと思い、身構...