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トライ・ライノセラス0724385068324購入記

作者: 沼熊  午前二時、宿直室にいた男のスマートフォンが鳴った。  彼はワンコールで出た——卓上の固定電話の子機を取るのと同じスピードで出た。画面が光り出すとほぼ同時に下部に表示されたアイコンを右へスワイプした。毎日緊急通報を受信する者としての職業病のようなものだった。彼は深夜の友達からの飲みの誘いであれ、くだらないセールス・トークであれ、いつでもワンコール以内に出た。その癖は必要以上に誠実なかんじを与え、無意識のうちに、会話の根底にささやかな緊張感がもたらされてしまう。  しかしながら、今度の電話の主はそれとは無縁であった。  「ねえ、何してんの?」彼女は気の抜けた声で聞いた。  「今日は夜の当番の日だよ」彼は子供に算数を教えるような口調でいった。  「ええ!なんでよ」驚いた声が聞こえる。「発売日でしょう」  彼は壁にかかったカレンダーを見た。そこには防災についての標語がデカデカと印刷されていた。きょう?彼はひやりとした。  「もしかして忘れてたの?」彼女がなじるようにいう。  「えっと、あした、じゃなかったっけ?」  「今日です。今日の午前三時!」彼女は一文字ずつ強調して言った。  発売日を間違えていた。関係が始まって以来こんな失態を犯すのは初めてのことだ。  「ごめん、発売時間に間に合うのはどうしても無理そうだよ、昼には終わるから、それから行こう。大丈夫だよ。買えるから。ねえ?」  電話の向こうにしばらくの沈黙があった。  「ちょっと」彼女がいった。「今からそっちに行くね」  「いや」彼は唐突な宣言に驚き、そこで言葉を詰まらせた。それからなんとかして彼女をなだめるべく、矢継ぎ早にいった。「流石にまずいんじゃないかな、ここには外部の人は立ち入れないし、そもそもこんな時間だから、また」  「行くから」彼女はそういって電話を切った。彼が耳から電話を離したときには通話画面はチャットに戻っていた。彼はなんとかして彼女の到来を阻止するべくメッセージを送った。既読がつかない。  彼はため息をついて、小さな宿直室を見渡した。灰色の壁に囲まれ、簡易ベッドが一つと書物机が置いてあるだけの部屋だ。彼は机に向かって必要書類の記入をしていた。窓はなく、蛍光灯の光が不自然に部屋全体を満たしている。装飾を極限まで排したこの部屋で唯一飾りと呼べるものがあるとするならば、それはさきほど男の悩...

俺には関係ないんやけどさ

作者: 髙嶋 大作戦 田中啓介(以下田中):本日はお忙しいところお時間を取ってくださいましてありがとうございます。早速インタビューに移らせていただきます。今日は業界紙に載せるインタビューなのですが社長の人となりが伝わるような記事になるようにしていければいいなと思っています。 酒匂雄二氏(以下酒匂):よろしくお願いします。僕なんかの話でよければぜひ使ってください。 田中:まず小さなころの環境といいますか、育った環境みたいなところの話からお伺いできればと思うのですが。 酒匂:そうですね。工場の中の家で育ったので加工する音とか指示を出す声とか印象に残っていますね。父も母も忙しくしていて1人で家にいることが多かったのですがあまり寂しいと感じたことはなかったですね。 田中:音があったからですか? 酒匂;ええ。工場から出る音はいつも私のそばにありました。父はちょうど事業を拡大する時期に差しかかっていたのでほとんど顔も見なかったですが仕事に邁進する姿は格好よかったですね。 田中:そのころからすでにお父様の背中を追いかけてらっしゃったんですか? 酒匂:ははは。それがそういう訳でもないんですよね。全く違う業種を志していました。定職にも付かずにふらふらしていましたね。俺は俳優になるんだと言って。それでも親から仕送りは貰っていたのですから情けないものです。 田中:お父様は応援してらっしゃったんですか? 酒匂:勘当だ!と怒鳴れたのを覚えています。怒鳴られたのですがなんだかんだで仕送りは続いていましたので縁が切れたというわけではないです。それで私が30歳になったときにこれではいかんと父に頭を下げにいきました。 田中:俳優を志していた経験は今に生きていますか? 酒匂:はっきりいって生きてはいませんね。ただ遊んでいただけですから。あの時間がなければもっと早く社長として父である会長の右腕として働くことができていました。悔やんでも悔やみきれません。ただこんなことを言っても悲しいだけなのであの時の経験は僕の糧になっているとなるべく言うようにしています(笑)。演技力は営業力とか、よくわからない理屈をつけてよく話してました。これをこじつけ力だと言ったりしてね(笑)。 田中:そうなんですね。入社してすぐはどういう仕事をされていたのですが? 酒匂:ちょうど海外に工場をつくるぞという時期でしたのでそこで...