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10月, 2022の投稿を表示しています

ポストシーズン

作者: 鈴木レイヤ  @reiyahead  目覚めと共に夏の終わりはペンキを剥がすように起こった。窓のレース越しに、頭から尾っぽの先まで八〇センチはありそうなカラスがベランダ柵にとまっているのが見えた。古く固まったペンキは気持ち良く剥がされて、その下から見たことのない壁が現れる、知らない匂いと過去が圧縮から解き放たれ、昔のまま新しく、裂け目から現れたくせに本来そうあるべきだったような顔をしている――ここにどの季節が来ているかは窓に問うても心に問うてもわからなかった、しかしその時点で途方に暮れたり困惑したりすることもなかった。窓のフィルムが緑に光っている、曇り空が緑がかっていたことがこれまであっただろうか?――携帯をつけると午前十時だった。通知に並んだ友人の名前には知らない名前がいくつかあった。しかしこれらはいずれも自分のゆうじんであるらしい。気づかないうちに友達が少し増えてしまっているのだ。  少し考えたところで僕は一つの結論に至った。この世界は少し、厳密に言うと1.3倍程度に広くなっている。トイレの壁に貼っていた世界地図が変わっていたのだ。赤道も温帯も永久凍土も広がっている、少し大きな星に変わっている、ありそうでなかった街の名がぽつぽつ見受けられる。緑がかった空に流れる雲は精密さを増していた。細かく色づいており、その下では大きな風が逆巻のコリオリで霧を打ち下ろしていた――もしこの世界でも龍が語られているなら、それもまた僕の知っているものとは少し違う想像力に則って描かれているのだろう。  電話帳の連絡先を見ても知らない人間が増えていることは確かめられた。飯を買いに街に出たらやはりところどころでひとブロックずつ増えていた。しかし、大騒ぎしている人は見当たらないので僕も困惑を隠し、夕方へ移ろう緑の空を眺めていた。  どうしたものかと思っていると夕方のニュースがひとつの答えを告げた。ニュースは幻覚している人がたくさん電話をかけている、と行った。少し違った世界になったと主張している人間が今日突然増えたらしい。彼らの信じる世界はここより少し小さいがほとんど同じであり、海が青い、主張は全て共通しているのだという。ニュースが不思議そうに語る異世界の情景こそが僕の知っている世界だ。幻覚者たちは自分が昨日と変わらぬ場所に生きているということを忘れており、これが世界...

じーさんばーさんに食わしてもろてます

作者: 髙嶋 大作戦  人生ポストシーズンだよなと思う。  俺の人生の話じゃない。目の前のじーさん、ばーさんの話だ。じーさん、ばーさんは食堂みたいなところでナイター中継を見ている。レギュラーシーズンも終わりかけでポストシーズンへの出場を掛けた一戦らしい。俺はじーさんとかばーさんが食事を喉に詰まらせたりしないかを監視しながら食事補助をしている。  オレンジのチームと青のチームの試合はもう既に決定的な点差が開いてしまっている。勝っているのはオレンジの方だ。ポストシーズンに出場するために焦っているのはオレンジの方で青の方はもう既にダントツの最下位が決まっているらしい。オレンジはこの試合を勝ってから明後日からの3位との直接対決に望みを掛けて息巻いているところだ。オレンジが見据えているのはもうこの試合ではなくて明後日からの試合だろう。青のホームでの試合のはずだが客の入りは悪くて盛り上がっているのはビジター側のスタンドだ。何だか見ていられない試合だがオレンジが悪い訳ではない。青がダントツで最下位なのが悪い。こうなるのが嫌なら初めから優勝争いにでも上位争いにでも絡んでいけばいいのだ。チーム事情がとか、予算がとか色々あるのだろうがそんなことはファンとか勝負の世界では大した問題ではない。今は自己責任の時代なのだ。  向かいの机のじーさんは自分では運べないほど重い会社四季報をわざわざ机の上に置いてオレンジのチームを熱心に応援している。政治とスポーツの話はビジネスにおいて触れてはいけないとされているが地域柄この老人ホームではほとんどがオレンジを応援していて特に騒ぎになることはない。昔はやり手の証券会社の社員だったというこのじーさんは株が趣味というかライフワークなのだ。この間は2000万ちかく勝ったと自慢していた。俺の年収の何倍あるのか計算するのも嫌になった。この老人ホームは割と金持ち相手に商売をしている。サービスもホテルみたいなもんで個室で飯を食うこともできるが寂しいのかしらんがこの食堂で飯を食う老人がほとんどだ。部屋に戻るときはあの重そうな会社四季報を運ぶのは職員の仕事だ。じーさんは贔屓にしている選手がヒットを打ったようで手を叩いて喜んでいる。  今日は夜勤なので夕食の補助をして夜間の見回りだ。入浴は昼間の人たちが済ませてくれているのでバタバタすることはなさそうだ。  じーさん...

ポストシーズン、花火

作者: 沼熊  小説を書いている、と胸を張って言えたためしなど一度もない。もちろん笑われることだって多いし、ある程度分別のある人でさえ、すごいですね、という言葉の前に軽蔑の表情がふわりと生じるのを、僕は見逃さない。無理のないことだとは思う。僕だって、三十代も半ばに差し掛かったようなおじさんが新人としてアルバイト先にやってきて、「小説を書いているんです」なんて言われようものなら——おそらく後々には仲良くなれるような人だろう、その人は。でも、どんなに取り繕っても、最初の一瞬、注意深くない人間ならば見逃してしまうであろうその一瞬、僕の表情は歪むだろう、”マジで言ってんの?”。僕は最初から真っ白な手を差し出せるだろうか。  いや、そんな人間が一人だけいたかもしれない。  夏休みも後半に差し掛かった頃で、店には宿題の追い込みに励む学生が明らかに増えてきていた。その喫茶店は店主の趣味で、チェーン店でもないのに夜遅くまで開店していた。夜はバー営業をするのかというと全くそんなことはなく、それ故にその店は中高生たちの格好の溜まり場になっていたのだ。僕は実家で生活しており、朝小説を書き、昼はダラダラと過ごして、夕方から閉店にかけて働いていた。働きはじめてから半年ほど経っていただろうか、店主はクローズ業務のほとんど全てを僕に任せるようになった。その頃店主は家庭内に問題を抱えていたらしく、気ままに夜遅くまで店番をすることができなくなっていたらしい。シフトの融通が誰よりも効く僕は重宝された。いつも助かるよ、と、僕はそれをなんとなく侮蔑のように感じながらも店じまいの責任を背負っていた。しかし、周囲に学生の溜り場が他に存在しない片田舎で、遅番とはいえその業務を一人でやりくりすることは難しくなってきていた。店主に相談すると、遅番をもう一人雇ってくれることとなった。  彼女は、少し離れた町の専門学校に通う学生だった。髪を金色に染めていて、なかなかに派手な服をいつも着て、しかし外見とは裏腹に無口で、勤務中でもひっきりなしに煙草を吸いに店の外へ出た。そして驚くべき量のシフトを入れた。他人のことを詮索するのは気がひけるが、この人にはプライベートというものはないのかと僕は訝ってしまった。  それでも、毎日同じ人間と顔を合わせるのは、仕事を教える僕にとってはとてもありがたいことだった。週一日しか入れない人間を...