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この一打に定むべし

作者: GUEST イチ、ニ、サン。 少年は開脚姿勢で座った父の背中を「サン」のタイミングでゆっくりと大きく押し込んだ。日常的に目にしているとはいえ、その180°の開脚姿勢は、柔軟性に欠ける少年の目にはいつも驚異的なものに映った。同時に、父が股関節の問題で現役を退こうとしている事実は、にわかに信じがたいことでもあった。 「意外と、まだ行けるもんだろ」父は言った。 少年は黙っていた。「なら、まだ行けばいいのに」の言葉は出てこなかった。喉に引っかかった魚の小骨を出すのを諦めたときのような少年の表情を、類稀なる広い視野を持つ父は、背中の目で見たかもしれない。 小学5年生の野球少年を子に持つ父は、プロの野球選手だ。いや、野球選手「だった」。17年間の現役生活に終止符を打ったのは先月半ばのことで、少年にとってそれが過去形となるための時間はまだ十分に経過していなかった。 父は安打製造機ではなかった。チームの主砲でもなかった。しかし、非常に勝負強い打者だった。印象に残る一打を放つベテランの姿は、『通好み』『いぶし銀』と人気を博し、殊勲打を放った翌日などは、少年は学校でも鼻が高かった。 『一発で仕留めろ』 父は野球少年の息子によくこう教えた。「一発で仕留めるために、長い時間をかけて良い準備をするんだ」 「2本あると思うから当たらないんだって、国語の授業で習わなかったか?」と言っていたこともあった。 実際、父は準備にこだわっていた。試合時間から逆算して、起床、食事、球場入りの時間を固定し、ウォームアップの内容から球場入りの車のルートまで、すべて同じルーティンにしていた。もちろん、打席に入るまでのルーティンも同じ。ネクストバッターズサークルで2本重りをつけたバットを振って、左打席に入る直前に一塁線と身体の正面が平行になる角度に立ってダウンスイング。ヘルメットのつばを左手で触り、相手捕手と審判に挨拶しながら打席に入り、地面をならす。ならしおわった後、またヘルメットのつばに左手で触り、右手のバットで2度下向きの弧を描く。左肩にバットを置くように一瞬の間を取ったあと、ゆっくりとバットを立てて全身でリズムを取り、投球のタイミングに合わせて右足の膝を腰の高さまで上げて一本足の姿勢でピタッと止まる。そして、すべてを込めた勝負の一振りが放たれる。 「ブラインドショット」と父が呼ぶ打撃法がある。「ブラ...

Good Scent Hunting

作者: 沼熊  懐かしい曲を聴いた時に特定の匂いを感じることがある。しかしそれは、例えば大学時代の友人が好きだった曲を聴くと、彼が運転する車の匂いが関連付けられてよみがえってくる、というようなものとは違う。音のどこかに反応して、鼻の奥のほう、前頭葉と鼻腔のちょうど真ん中のところにぷつっと棘が立つような。それが顆粒の入ったカプセルのように溶けだし、徐々に当時の視覚的なイメージを伴ってくる。匂いと呼ぶのは不適切かもしれない。ただ鼻の奥で感じる以上他の言葉も適当でないように感じられる。  そのような匂いのひとつを、僕は最近失ってしまった。  先日、新宿駅南口で路上ライブをしている男を見かけた。男は路上ライブには珍しく、海外の楽曲をメインに弾き語りをしていた。僕は待ち合わせだったので、男の演奏を聞くともなく聞いていた。男はビートルズの楽曲を数曲演奏した。格別特徴のない声だった。  その日は混雑しており、僕は相手と会いかねていた。メッセージのやりとりをしながら、わかりやすい場所を探して移動しようとした時、男がCメジャーキーの聞き覚えのあるイントロを演奏し始めた。僕は男からは見えない場所でさりげなく足を止め、男が歌い出すのを待った。  この街を出て行きたい  古い街にいいことなんて何もないから  危険のサインが頭の中をぐるぐると回っている……  オアシスの『Half The World Away』だった。僕は中学生の頃、オアシスをよく聴いていた。それ以降はあまり聴かなくなってしまったため、曲によっては特定のイメージと結びつきやすいバンドだ。この曲は中学校の卒業式と関連付けられていた。それは卒業式の日、自宅に帰ってから部屋で何度もこの曲を再生したからだった。あれからずっと、聴くたびに、僕はこの曲の匂いとそれから染み出してくるイメージをありありと思い出す事ができた。あの橋の上……。  待ち合わせていた友達と飲んだ帰りの電車で、僕はSpotifyで『Half The World Away』を検索し、聴いた。音源ならばあの匂いがよみがえってくるはずだった。しかし、酒に酔っているからなのだろうか、求めている匂いを感じることはできなかった。  次の日には部屋で何度も聴いた。あの匂いを最後に感じたのはいつだっただろう?僕はイヤホンでその曲を聴き、スピーカーで聴き、それから、当時はYouTub...

狩猟にカセット

  作者: 髙嶋 大作戦  スマートウォッチのモニターの5つの光が点滅しながらその円弧を狭める。鈍い色の空を見上げてしばらく待っているとドローンの羽音が耳に入ってきた。そろそろ追い立てられた鹿が視界に入ってくる頃合いだ。視覚情報を転送させることもできるが狩りの匂いを損なうような気がしてドローンの位置情報だけ把握するようにしている。ランデブーポイントに設定した杉山の林床は低い笹で覆われている。あとは遠くの笹が揺れる場所に気を張っていればいいだけだ。この山は冬の時期、全く風が吹かない。俺は肩に掛けていた麻酔銃を両手にとって見つめる。狩猟における実弾の使用が禁止されてからどれくらい経つだろうか。この国ではテロリストは実弾で死ぬが野生鳥獣が弾丸で命を奪われることはない。動物の権利を守ると言った徳川将軍もいたが、それから何百年たった現代において動物の権利にはさらに重きが置かれた。畜産は廃止されたし愛玩動物もいない。野生動物だけが生存を許されている。畜産は廃止されたが食肉文化が完全になくなったわけではない。合法で肉が食べられるのは表向きにはこの俺が従事している国立公園での狩猟で手に入るジビエだけとされる。ただ肉の味を忘れられない人間は多く、違法で肉が流通している。今ではヤクザのしのぎは薬ではなく肉になっているから皮肉なものだ。畜産を営んでいるヤクザもいれば、勝手に山で狩猟を行うヤクザもいる。人間に育てられなくなった犬、鶏、豚や牛はその数を急激に減らした。  笹が揺れるのが視界に入り、かじかんだ指に息を吹きかけて麻酔銃を構える。鹿の頭がぴょんぴょんと跳ねている。もう少しひきつけると成功率があがるとAIは助言してくるが俺は標準を合わせて引き金を引く。倒れる音がして笹の揺れが無くなる。麻酔銃を背負い直しながらポーチから鹿を安楽死させるためのカセットを取り出す。はっきり言って鹿は麻酔銃を撃ち込まれた時点で死んでしまっていることが多い。このカセットは意味がないが事務所に戻った後で死体の数と使用済みカセットの数が合わないと懲戒免職だ。動物がどうやって死ぬかはお偉い方には関係のない話なのだ。世間が自分の手は汚れていないのだという安心感だけを求めたのがこの安楽死カセットなのである。  倒れている鹿は恐らく既に死んでいる。俺は両手を合わせて山の女神に祈りを捧げる。 「本日もお恵...