強制退去
作者: 沼熊 「そろそろお金、厳しそう。ごめん」と青年は、母へのLINEに打ち込んだ。が、送信ボタンが押せなかった。今月、これで何回目だ?前々回の振り込みはやっと見つけたまともなレッスンの入学金や諸々の費用に消えた。前回の分は毎晩のように飛び込みでセッションに参加し続けていたらいつのまにか底をつきかけている。彼には給料日までの一週間をしのぐ為の金がない。それどころか、その日に入るわずかなアルバイトの給料も、ほとんどがこの都市の高すぎる家賃に消えていってしまうことだろう。 青年は昨晩のセッションを思い出した。まばらなプレーヤー達による殺伐とした空気、ここぞというときにアタックの足りないベース、重すぎる荷物をかごに載せた自転車を漕いでいるような、ふらふらと安定しないドラム、こんなところで何年やろうが、どこにも行けない。彼は決められた順番で白鍵と黒鍵を叩き、ほかのプレイヤーと意識を合わせているふりをして、その向こう側にある白くて硬い壁を見ている。地下のライブハウスの閉塞感が、どこにも行けない、という意識を加速させる。そこには熱がない。冷蔵庫の中みたいに動きがない。こんなものは音楽と呼べない、と青年は思う。狭い自室で、録音されたゼロイチの電気信号をでかいスピーカーで流しただけのエネルギーのほうが何倍も熱を持ち、飛び込んでくる。 送信ボタンが押せないまま、青年はLINEの画面を指でスワイプし、消した。彼は腹が立って、部屋を出た。なにも用事はないが、ここからほど近くにあるジャズクラブへ向かおうと思った。日没後、彼を閉じ込めようと待ち構える大きな白い冷蔵庫が、昼に無防備な姿をさらしているさまを、見に行きたかった。 かなり寒く、しかも空に分厚い雲のかかった日だった。青年は半袖で家を出たことを後悔しながら、速足で進んだ。 街路に出るための曲がり角に、大きめの公園がある。青年はその入り口付近に人の姿を認めた。ホームレス。ふだんは視界にとらえても認識しない膨大なものごとのひとつであり、それは世の中の全員がもれなくそうなので、その男は普段は存在しないも同然であった。それが今彼の意識にのぼったのは、その男がいま、珍しく誰かと会話をしているからだった。 「ですから、夜間ここにはもう入れなくなりますので、移動していただきたく」 会話の相手は、この都市の職員だった。緑色の作業服に、都...