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8月, 2021の投稿を表示しています

サマーソルト

作者: 沼熊  いつものようにベランダで煙草を吸うと、吐いた煙が真っ白のまま、なかなか広がっていかなかった。僕はおかしいな、と思って、息を吹きかけたり、手で掻いたりしてみたが、煙は消えるどころか入道雲のようなかたちに集まってきた。やがてそれは人体の形になり、はっきりとした顔ができてきた。まるくて愛嬌のある顔だ。遅れて中央部分が奇妙に膨らんだ手足と胴体が完成した。それは僕にミシュランのキャラクターを想起させた。  「最近一吸いしたらすぐ捨てよるな、お前は」とミシュランが言った。「もったいないで」  「はあ」僕はいきなり注意されたので驚いた。それから、こういうやつにはなんと話しかけたらよいのか、自分のこれまでの人生を振り返って最適解を見つけ出そうとしたが、その試みを完了させる前に次の言葉が口をついて出てきてしまった。  「あの、なんですか」  失礼なことを言ってしまったかな、と心配した。  「失礼やな」  「すみません」  出てきていきなり僕に二回注意してきたそれは、しかし、とても自然な関西圏のアクセントで話す。さらに、よく見ると従順な子犬を思わせる目をしていた。  「空飛びたいとか思わんの?」とミシュランが言った。「とか」の使い方をとってみても、僕と同世代の人間のものによく似ていた。話しぶりがあまりにも自然なので、内容の突飛さに気付くのがやや遅れた。  「空?」  今日の空は青かった。僕は昼まで寝ていたので、雲一つない晴天であったことに初めて気が付いた。その青はとても平面的で、脂肪分の多いアイスクリームのように、真夏に味わうには濃すぎる感じがした。高度によって青の濃さが変わらない空だった。この三階のベランダから見える東京郊外の住宅の屋根瓦は、空との境界でかろうじてその色を保っているように見えた。あと少しバランスが崩れただけで、屋根も青く浸食されていきそうな気がした。  「とりあえず空飛びたいなら準備してこいや」ミシュランがつまらなそうに言った。これまで何人もの人間に空を飛ばせてきた、という口ぶりだった。  「準備……」  「できとんか?ほなもう行くで」  「ちょ、っと待ってください!」と僕は言った。「どういうことかわかってないです」  「お前のいつもの愛煙家活動にささやかな感謝をしたんねん」ミシュランが急に違和感のある言葉遣いをしてきた。僕は"アイエンカカツ...

Summer Salt

作者: 髙嶋 大作戦  彼女の瞳は朝の光を反射してきらりと輝いた。これはくさい比喩ではない。彼女の瞳は物理現象としてキラキラと輝いているのだ。柔らかな手を握りながら話を聞いていると体温の高い生き物と無機質なものの組み合わせはどうしてこんなにも合うのだろうかと思う。そんな瞳で見つめられるもんだから僕は気恥ずかしくって自分の顔をあちこち触ってしまう。どうして彼女は俺のことをそんなに見つめているのだろうか。それはきっと付き合っているからだ。僕には付き合うってことがどんなことを意味しているのか分からない。だからよくは分からないが付き合うってことには彼女が俺のことをじっと見つめるということも含まれているのだろう。 「レースの影を床に落とした朝の光が部屋に溢れていた」  そう言って彼女が差し出すのは俺が貸していた文庫本だ。涼し気なブルーを基調にして二人乗りした男女の絵が中央に描かれている。彼女はその中の一節をそらんじている。これは気に入った時の合図だ。俺もこの本は割と気に入っていたので素直に嬉しい。  趣味の合う綺麗な彼女、朝の綺麗な光、閉じた空間に二人っきり。ここが病室であることを除けばこれはかなりロマンチックなシチュエーションなのではないだろうか。彼女は薄いブルーのパジャマに身を包んでいる。袖から覗く腕は細く白い。 「けど病人にこれを貸すのはどうなの?このヒロイン死んじゃったよ?」  彼女はおかしそうに笑っている。確かにこのヒロインは不治の病で死んでしまう。入院中の彼女に貸すにはデリカシーがなかったと慌てる。 「いや、そういうつもりがあったわけじゃなくって。ほら、泣ける系がいいって言ってたから。どうしてもそういうのって人が死んだりするじゃん」  彼女は意地悪そうな目で笑う。 「へー、どうだかね。……少し眠るわ」  そう言って彼女はベッドの中にもぐりこんだ。 「しんどい?」  ベッドはもぞもぞと動いたが返事はなかった。僕は持ってきておいた別の文庫本をサイドテーブルに置いて病室をあとにした。  彼女は少しずつ塩になっている。  脚の膝から下は既に真っ白な結晶になっている。足の指は関節から折れてしまってもうすでにない。膝上まで進行すれば関節は脆いのですぐに膝から下は折れてしまうだろう。今は大分落ち着いたが足の指がぼろぼろと崩れているときの彼女の取り乱しぶりはすさまじかった...